第45回県史だより

目次

在京守護代小鴨氏の活動

はじめに

 室町時代の守護は、原則として京都に在住し、任国の政務は守護代と呼ばれる代官に任せていました。その一方で、畿内近国の守護代の中には守護とともに在京していた者も多くいました。

 伯耆国久米郡の国人小鴨(おがも)氏も在京が確認できる守護代の一人です。今回は、京都における小鴨氏の活動を取り上げてみたいと思います。

嘉吉の乱と小鴨氏

 小鴨氏と京都の関わりが史料で確認できるのは嘉吉元(1441)年前後です。この年の6月、京都では将軍足利義教(よしのり)が播磨国(兵庫県)守護の赤松満祐に殺害されるという嘉吉の乱が起こりました。将軍殺害後、満祐は播磨国に逃れますが、幕府の追討軍に攻められ自害します。このとき首謀者である満祐の首を取ったのが小鴨之基(ゆきもと)でした(注1)。この戦功により、之基は伯耆守護山名教之とともに、幕府の役人である伊勢貞助から褒美を与えられています。

京都おける小鴨氏の居宅

 嘉吉元年9月、山名教之は戦功により備前国の守護職を与えられ、小鴨之基はその守護代に任命されました。しかし、之基は京都にとどまり、備前国には代わりの者を派遣していたようです。

 京都における小鴨氏の居宅がどこにあったかは定かではありませんが、『建内記』によれば、文安4(1447)年3月に、出雲国人の斎藤氏が小鴨之基らと対立し、数百人の兵を率いて小鴨宅へ押し寄せようとして「下辺が物騒になった」とあります(注2)。「下辺」とは現在の京都の町の南側を指し、中世においては商工業者が多く住んでいたと言われています。小鴨氏の居宅もこのあたりにあった可能性が高いと考えられます。

小鴨氏の文化活動

 在京中の小鴨之基は学問や文化活動にも熱心に取り組んでいました。

 『康富記(やすとみき)』によれば、享徳2(1453)年5月17日に、儒学者である中原康富が小鴨宅を訪れて「論語」を講義したとあります。康富は8月2日・17日にも小鴨宅で講義を行っています(注3)。このとき小鴨宅には多くの公家や武家が集まりました。講義後、人々は食事を取りながら、さまざまな情報交換をしています。

 また、同年8月11~13日、之基は連歌師である宗砌(そうぜい)を招いて大規模な連歌会を開いています(注4)。京都の小鴨宅は、いわば当時の文化サロン的な場所であったと考えられます。

おわりに

 その後、小鴨之基は山名教之から備前国への下向を命じられ、享禄2(1453)年8月27日に京都を離れていきます(注5)。以後の動向は定かではありませんが、応仁・文明の乱の影響を受け、その後は伯耆へ帰国したものと推察されます。

 このように、在京中の小鴨氏は、京都の公家・武家をはじめ、文化人や商人らと幅広く交流を重ねていたと思われます。室町時代の京都は、地方武士たちにとって、やはり魅力的な場所であったに違いありません。

(注1)岡村吉彦「伯耆山名氏の権力と国人―山名教之を中心として―」(『鳥取地域史研究』第3号 2001年)。

(注2)『建内記』文安4年3月8日条。『建内記』は京都公家である万里小路時房(までのこうじときふさ)の日記。

(注3)『安富記』享禄2年5月17日条、同年8月2日条、同年8月17日条。

(注4)小坂博之氏『山名豊国』(法雲寺 1973年)。

(注5)『安富記』享禄2年8月17日条。

(岡村吉彦)

室長コラム(その38):江戸に行きたがらない武士たち

 大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。このコラムを書いているのは、その第3話が放送された後で、ドラマでは、坂本龍馬が剣術修行のため、土佐から江戸に向っているところだ。この後、坂本龍馬は江戸で北辰一刀流の千葉定吉に入門するはずである。

 千葉定吉は、有名な千葉周作の弟で、剣の腕を買われ、「剣術家業」として鳥取藩にスカウトされていた。江戸定詰であるため、鳥取に住んだわけではないが、身分的には立派な「鳥取藩士」である。定吉の子重太郎も、文武に秀で、後には鳥取藩周旋方として、広く天下の志士と交わった。坂本龍馬が勝海舟を殺そうと勝家を訪問した際に、龍馬と同行していたのがこの千葉重太郎だ。今後ドラマの中で千葉定吉・重太郎親子がどのように登場するか、鳥取県民としては楽しみだ。

 ところで、ドラマの中では、龍馬や岩崎弥太郎にとって、江戸に行くことは大きな夢だった。しかし、仕事としての江戸詰めは、どうも誰もが望むものではなかったようだ。

 鳥取藩の「家老日記」文化9(1812)年4月28日の項に、以下のような記述がある。下級武士である徒(かち)身分を統括する御徒頭(おかちがしら)に対して家老が与えた指示である。

徒身分で江戸詰めを命じられた者の中に、病気を理由に鳥取を出発する日を延ばしたいと願い出で、さらに病気が快復しないので江戸詰め時期の変更を願い出る者がある。また、鳥取を出発した後、道中で病気になったので、一旦鳥取に帰り養生したいと願い、帰国後に江戸詰め時期の変更を願うものがある。病気とは言いながら、最近そのような例が非常に多い。今後は、江戸詰めの御徒の取調べについて、考えもあるので、今後、御徒に対してその旨を申し聞かせておくように。

 江戸詰めを命じられた徒の内、病気を理由に出発を延期したり、途中で引き返したりする者が多く、江戸詰め役人の人員確保に支障がでていたのだろう。勿論、実際に急な発病で、やむを得ず願い出た場合もあっただろうが、家老がわざわざこのような指示を出しているところから見ると、中には江戸詰めを嫌っての仮病もあったと思われる。

  鳥取藩では、前年末までに翌年の江戸詰めの人選がなされ、通常2月から3月の間に江戸に向かう。江戸詰めは、上級藩士の場合は1年間が普通だが、徒の場合は3年詰の場合もあった。江戸詰めの際には、国元より高い給与が支給され、また、出発前には藩からまとまったお金を借りられた。しかし、それを上回る支出が江戸での生活にはかかったのだろう。江戸詰めから帰った藩士の多くが、借金を長期のローンで返済することを願い出ている。江戸詰めは、どうも魅力有る勤めではなかったようだ。

 それでも、藩としては、江戸藩邸のさまざまな仕事を行うため、藩士を江戸に送らなければならなかった。先に引用した文章には、以下の但し書きが付いている。

江戸詰めを命じられた者が病気を理由に断った場合、次の江戸詰めを勤めない内は、役職や給与の昇進の候補から除外することを申し聞かせておくように。

 つまり、江戸詰めを経験しない者は、上の役職には進めないこととして、藩は江戸詰め役人の確保を図ったのである。こういう人事や出世の仕組み、結構今でも見られるような気がする。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年12月

 
3日
民俗調査(鳥取市気高町宝木・八束水、樫村)。
4日
古墳測量協議(鳥取大学、湯村)。
5日
新鳥取県史シンポジウム(とりぎん文化会館)。
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
日本民具学会研究発表(京都造形芸術大学、樫村)。
7日
資料調査(京都府立総合資料館、樫村)。
9日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
9日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
11日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
13日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
14日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
15日
民俗調査(倉吉市上古川公民館、樫村)。
16日
聞き取り調査(米子市博労町、西村)。
民俗調査(鳥取市八束水、樫村)。
18日
古墳測量調査協議(鳥取市古郡家、湯村)。
21日
鳥取城跡発掘調査会検討会(鳥取城跡、湯村)。
22日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
25日
資料返却(鳥取市あおや郷土館・鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 新しい年が明けました。新鳥取県史編さん事業が開始してから約4年経過し、2月には、今回、中世についての記事を執筆した岡村専門員が担当した新鳥取県史ブックレットの4冊目、3月にはいよいよ新鳥取県史資料編の1冊目が刊行されます。積み重なってきた調査研究の成果が少しずつかたちになる段階に入りました。これからも公文書館のホームページなどで、刊行以前の調査研究の途中経過をお知らせしていきますので、よろしくお願いします。

(樫村)

  

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