第109回県史だより

目次

「宗門帳」から見る江戸時代の鳥取町人

はじめに

 鳥取藩三十二万石の城下町である鳥取は、江戸時代にその原型が作られ、武士、町人など多くの人々の生活の場となりました。しかし、昭和18(1943)年の鳥取大震災、昭和27(1952)年の鳥取大火などの災害により、江戸時代の鳥取城下の町人の動向を窺うことができる史料は現在あまり伝わっていません。

 県史編さん室では、『新鳥取県史 資料編』編さんのための調査を行う中で、鳥取城下の町人の様子を知ることができる史料を発見しました。今回は、その史料の内容を御紹介します。

家持宗門帳の写真
家持宗門帳(鳥取大学附属図書館蔵)

「家持宗門帳」とは

 ここで御紹介するのは、鳥取大学附属図書館に所蔵されている「家持宗門帳」です。史料の表紙には「安政六年未五月 家持宗門帳 二階町四丁目」、裏表紙には「目代助十郎、重兵衛」と書かれており、安政6(1859)年5月に二階町四丁目(現鳥取市二階町四丁目)の目代(村の庄屋に相当する町の代表者)が作成したものと分かります。この「家持宗門帳」とは、二階町四丁目の住民の名前と檀那寺名、出身地を記したもので、「宗門」の名が示すとおりいわゆる「宗門改め帳」です。宗門改め帳はもともとはキリスト教徒取締りのために住民の檀那寺を取り調べたものですが、戸籍のような役割も果たしました。本史料にも朱書(赤い字)で「病死」や「○○より引越」などの住民の移動の状況が注記されています。このような追記は明治元(1868)年までのものが「家持宗門帳」に見られます(注1)。従って、本史料は安政6年から明治元年までの10年間の記録ということになります。

 二階町四丁目は、課税率からみた町のランク付けでは七等級のうちの二番目に高い「中の上」に入る町で(注2)、鳥取城下の中でも繁華な地域であったようです。寛永11(1634)年の竃(かまど)数は21、安永7(1778)年の家数は45、明治9(1876)年の家数は59、人数は184となっています(注3)。この安政6年5月「家持宗門帳」には41軒の屋敷の記載があります。ちなみに今年(平成27年)3月の二階町四丁目の世帯数は29、人数は62です(注4)

 「家持宗門帳」にはどのような事柄が書かれているのか、その具体例を見てみましょう。


【史料一】
浄土宗
一慶安寺檀那           大谷十兵衛家守
                  加路屋
  生所二階町四丁目        清蔵㊞
                    同人父
  生処元魚町弐丁目 幼名清蔵・治兵衛 十三郎
(朱書)「己未九月改出生」     同人弟
  生処二階町四丁目         幾蔵
(朱書)「癸亥十一月改十三郎儀、津田雄次郎殿水原四郎右衛門方へ由緒有之引取行」

法花宗
一菅能寺檀那
                   十三郎妻
  生所邑美郡吉方村          とら

 【史料一】には、加路屋清蔵を筆頭に、その父十三郎、弟幾蔵、十三郎妻とらの4人の名が書かれています。

 加路屋清蔵の世帯は、安政6年5月時点では清蔵・十三郎・とらの三人でしたが、朱書部分にあるように、安政6年9月に弟幾蔵が生まれ、文久3(1863)年11月には十三郎が鳥取藩士津田雄次郎の家臣・水原四郎右衛門のところへ引き取られたとあります。

 また、檀那寺に着目すると、清蔵、十三郎、幾蔵の檀那寺は浄土宗の慶安寺ですが、とらの檀那寺は法華宗(日蓮宗)の菅能寺となっており、同じ世帯でも別々の宗派・檀那寺であったようです。これは加路屋が特殊であったということではなく、他の世帯でもしばしば見られます。

 生所(出身地)は、清蔵と幾蔵の兄弟は二階町四丁目ですが、その親十三郎は元魚町二丁目、とらは邑美郡吉方村となっており、加路屋が代々二階町四丁目に住んでいたわけではないことが分かります。

家持と家守

 ところで、【史料一】の加路屋清蔵の名前の上にある「大谷十兵衛家守」とは何を示しているのでしょうか。

 『角川新版日本史辞典』によると、家守(やもり)とは「江戸時代の町屋敷の管理人。(中略)家持から家守賃を受けとって町屋敷を管理し、地借(じがり)や店借(たながり)から地代・店借を徴収した。」(注5)、とあり、さらに家持(いえもち)とは「江戸時代、町人のなかで家屋敷を所持し、そこに住む者。町の正規の構成員であり、幕府の公役(くやく)・町入用(ちょうにゅうよう)を負担し、町名主(なぬし)などの町役人となることができた」とあります。つまり、【史料一】の加路屋清蔵は、大谷十兵衛が所持する屋敷の家守であるということになります。今回紹介している「家持宗門帳」に収録されるのは、町の住民のうち「家持」と家持の所持屋敷の管理人である「家守」(とその家族)となり、「家持」「家守」以外の人々は収録対象外でした。

 それでは、収録対象外となったのはどのような人々なのでしょうか。


【史料二】
一天徳寺檀那
                     湊屋
  生所二階町四丁目 幼名直太郎・半右衛門 半市

                     同人妻
  生処邑美郡湯所村 幼名ふゆ       こと

                     同人娘
  生処二階町四丁目            八重

(朱書)「辛酉二月改名替り」       同人忰
   生所右同断 幼名乙太郎・宣之助    重次郎
(朱書)「辛酉二月改右四人共式丁松本甚五郎家守三十屋甚次郎裏借屋より家替来る」
 (後略)

 【史料二】の屋敷は、もともと大谷文次郎家守の大黒屋吉蔵の家族がいましたが、万延元(1860)年9月に引越し、空き家となっていました。そこへ翌文久元(1861)年二月に引っ越してきたのが湊屋半市の家族です。湊屋はもともと「式丁(二階町四丁目)松本甚五郎家守三十屋甚次郎裏借屋」であったと注記されており、同じ町内の三十屋甚次郎の「裏借屋」であったことが分かります。ところが、「家持宗門帳」の三十屋の項目を見ても湊屋半市一家の名はなく、同帳が作成された安政6年5月時点では湊屋は「家持宗門帳」の収録対象ではなかったということになります。湊屋は「裏借屋」つまり町屋敷の裏手にある家の借家人であり、これらの借家人たちは「家持宗門帳」には収録されませんでした。「家持宗門帳」には前述のとおり全部で41軒の屋敷の家持・家守の記載がありますが、二階町四丁目にはこの帳面に記載されない借家人が多く存在していたと思われます。借家人(店借ともいう)は「町の正式な構成員とは認められず(中略)通りに面して商売を営む者を表店借、内側に間借りする下層の者を裏店借とよんだ」とされ(注6)、特に裏借家の人々は下層とみなされていたようですが、「家持宗門帳」には湊屋半市のように借家人から家守となる者や、逆に家守の家族から借家人になる者も多く記載されており、この時期の二階町四丁目においては家守層・借家人層の境界ははっきりしたものではなかったと考えられます。

 この他、家持の町人の中でも、「直触につき町内人別改外」、「独礼につき町内人別改外」などと書かれ、家族や出身地・檀那寺の記載がない者もあります。「直触(じきぶれ)」、「独礼(どくれい)」は町人の格式を示すもので、「直触」は直接町奉行の支配に属し、様々な御触などが直接町奉行より達せられる人々を指します(一般の町人には町奉行から町年寄・目代を経て達せられる)。「独礼」は正月の藩主御目見(おめみえ)の際に単独で御目見ができる人々を指しました(注7)。これらの人々とその家族は、一般の町人のように町の目代が作成する宗門改め帳には掲載されず、各家から直接町奉行に宛てて提出されていたものと思われます(注8)

 また、大きな商家や職人の家には奉公人や弟子などがいたと推測されますが、この「家持宗門帳」に掲載されているのは家族・親族のみですので、これらの人々も別の形で町に把握されていたと考えられます(注9)

町人の移動

 「家持宗門帳」には居住者の移動の記述が数多く見られます。鳥取城下の他町から二階町四丁目に引っ越してくる者ばかりではなく、【史料一】の加路屋十三郎の妻とら、【史料二】の湊屋半市の妻ことのように、鳥取近郊農村の出身者が鳥取城下の住人となる事例や、その逆に近郊農村へ出て行く事例もあります。

 また鳥取城下の中でも、武士の住む武家地、町人の住む町人地は分かれていましたが、【史料一】の加路屋十三郎のように武家地へ移る事例がある一方、出生地が「御家中長屋」とある者も数人おり、鳥取藩士の屋敷地内に設けられた長屋で生まれた者が、町人地である二階町四丁目に移り住んでいる事例もあります(注10)

 町内間の移動でも、【史料二】で示したとおり「裏借屋」の者が家守となる事例もありました。

 このように、二階町四丁目の住民だけを見ても、その出身地、階層は様々であり、移動・変動することもあったということが分かります。

おわりに

 ここまで「家持宗門帳」の内容を簡単に御紹介しました。「宗門帳」からは、出生地や各家の人数、年ごとの転出・転入件数など、様々な数値を出し、分析することが可能ですが、ここでは一部の事例紹介に止めました。また鳥取県立博物館には町人地の屋敷の所有者を記した絵図「鳥取城下町大切図」(天保14〈1843〉年12月)が所蔵されていますので、「宗門帳」と「大切図」の記載内容の比較分析も必要です。さらに『鳥取県史』4巻(注11)で紹介されている鳥取城下の元大工町の町人の動向との比較も重要な作業となるでしょう。「家持宗門帳」は様々な活用の可能性を持った貴重な史料であると言えます。

(注1)鳥取大学附属図書館には明治2年4月作成の二階町四丁目の「家持根帳」も所蔵されている。

(注2)『新修鳥取市史』第2巻(鳥取市、1988年)p.217

(注3)『鳥取県の地名』(平凡社、2001年)p.178

(注4)鳥取市公式ウェブサイト 町別世帯数・人口 (平成27年5月11日閲覧)http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1191459294170/index.html

(注5)『角川新版日本史辞典』(角川書店、1996年)。

(注6)注4前掲『角川新版日本史辞典』、「店借(たながり)」の項。

(注7)『鳥取市史』(鳥取市役所、1943年)p.396

(注8)『新修鳥取市史』第3巻(鳥取市、1985年)p283に、有力町人の石井昌平から町奉行に提出された「御宗判書之控」(弘化2〈1845〉年)が掲載されている。

(注9)奉公人に対しては毎年四月町会所にて「奉公人改」が行われ、出身地、名前、年齢、檀那寺が取調べられたという(『鳥取藩史』第5巻、鳥取県立鳥取図書館、1971年、p.47)。

(注10)坂本敬司「鳥取の武家屋敷―拝領屋敷・借宅屋敷・長屋―」(『鳥取地域史研究』第8号、2006年)に武家屋敷内の長屋の居住者について言及がある。

(注11)『鳥取県史』第4巻(鳥取県、1981年)p189~236

(渡邉仁美)

活動日誌:2015(平成27)年4月

2日
遺物借用及び資料調査(鳥取県立博物館、湯村)。
7日
平成26年度刊行作業の振り返り(公文書館会議室)。
13日
史料調査(智頭町中央公民館、岡村)。
14日
四王寺山調査(倉吉市大谷地区、西村)。
15日
資料写真撮影(智頭町、樫村)。
16日
遺物借用(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
史料借用(若桜郷土文化の里、渡邉)。
資料写真撮影(鳥取市気高町、樫村)。
22日
県史編さんに係る協議(倉吉西高等学校、杉本・岡村)。
資料調査(日野町歴史民俗資料館、西村・前田)。
資料写真撮影(智頭町、樫村)。
23日
県史編さんに係る協議(鳥取県教育委員会高等学校課、杉本・岡村)。
資料調査及び遺物返却(鳥取県立博物館、湯村)。
24日
資料調査等の協議(八頭町教育委員会、湯村)。
軍事編に係わる協議(公文書館会議室、西村)。
25日
現代部会月例資料検討会(公文書館会議室、西村)。
27日
資料調査の協議(南部町教育委員会、湯村)。
30日
遺物返却(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
史料借用(鳥取市史編さん室、渡邉)。
資料調査(日野町歴史民俗資料館、西村・前田)。

「県史だより」一覧にもどる 

「第110回県史だより」詳細を見る

  

編集後記

 今回の記事は鳥取城下の町人のいわゆる宗門改め帳に関するものです。記事中に 【史料一】の加路屋清蔵一家は、父十三郎、弟幾蔵は檀那寺が浄土宗慶安寺ですが、十三郎妻とらのみは檀那寺が法華宗(日蓮宗)菅能寺であり、これが特殊ではなくしばしば見られたとあります。このように一家内に複数の檀那寺をもつ家を民俗学では「半檀家(複檀家)」といいます。今まで民俗学において報告事例が多いのは関東、中部、九州地方です。しかし県史民俗部会報告で鳥取県内にも半檀家はしばしば見られ大きな課題であるという意見がありました。現代における民俗調査では明瞭な答えがなかなか見えませんが、今回の記事から、鳥取の半檀家研究には宗門改め帳という近世史料から歴史民俗学的アプローチを加える必要性を感じました。

(樫村)

  

Copyright(C) 2006~ 鳥取県(Tottori Prefectural Government) All Rights Reserved. 法人番号 7000020310000