第120回県史だより

目次

企画展「鳥取大火の初公開写真」に寄せて—

はじめに

 1952(昭和27)年4月17日午後2時55分頃、鳥取市吉方の市営動源温泉付近から出火した火災は、風速15メートルの強風にあおられて西北に広がり、旧市街地の3分の2を灰じんに帰し、翌18日午前3時に鎮火しました。現在当公文書館で開催中の企画展「鳥取大火の初公開写真」では、罹災面積48万余坪にのぼった戦後最大の火災の様相を、米空軍の航空写真や延焼の現場写真、焼け残った建物さらに防火建築帯の建設復興に至るまで、幅広く御紹介しています。

 大火の原因、被災、救護、復興の状況は、『鳥取市大火災誌』(災害救護編/復興編)(注1)が詳述しています。ここでは現代部会の調査で明らかとなった2、3のトピックをお伝えします。

昭和27年4月17日の火災

 当時の鳥取市の気象条件は数日前からの晴天続きによる高温乾燥で、当日はさらに南南西の強風が吹き、県内に火災警報が発令中でした。当館が所蔵する昭和27年『火災発生報告書』によれば、4月17日には県内の別の5箇所でも火災が発生しています。

 当日の出火原因の多くが強風による飛び火や延焼だったことがわかります。列車煤煙(ばいえん)中の火の粉や煙突の煤煙からの飛び火は、鳥取大火でも検証されましたが、当時それほど珍しくない出火原因だったことが窺えます。

出火時刻 出火場所 物件 出火原因

午前1時

東伯郡
下北条村

住宅・蚕室・牛舎等

灯火の不始末

午前9時半

日野郡
石見村

草葺き屋根

貨物列車煤煙中の火粉の飛び火

午前9時半

東伯郡
八橋町

住宅

附近で焼却中のゴミが強風により延焼

午前10時半

西伯郡
香取
開拓団

住宅・建物・山林原野

前日の「くよし」(雑草などを焼くこと)の残り火の飛び火

午後2時半

東伯郡
上北条村

住宅

かまどの煙突から草屋根に飛び火

表1 昭和27年4月17日鳥取県内の火災発生状況

三木知事と岡山県の支援

 鳥取大火の被災状況が全国に伝わると、県内外から多くの救援物資や見舞い・義援金が寄せられました。今回の展示では米軍兵站司令部から届けられた救援物資(レーション:戦闘糧食)が入っていた箱とその支給状況の写真を展示しています。

 そうした他県からの支援のなかでも異例の早さを見せたのが岡山県の三木行治知事でした。三木は17日午後9時に岡山県庁を出発し、夜中に県境を越え、鎮火前の午前2時に鳥取県庁に到着します(注2)

さっそく三木知事は救護隊本部の看板のかかった玄関口で折から火災現場の視察から帰ったゲートル姿の西尾知事と固い握手をかわす「大変だときいて駈着けました。出来るだけの協力をしますから遠慮なく申して下さい」と見舞いの言葉をのべ、福神ヅケ、アメ玉、タバコなどの慰問品を渡せば、西尾知事は思いがけぬ隣県の知事、しかも九大の同窓生の見舞いに、しばし感激の目をうるませる。(「山陽新聞」昭和27年4月19日付朝刊)

 三木知事は鳥取市役所と日本赤十字鳥取病院を見舞い、午前3時半に帰途につきます(注3)。その後岡山県は民生部厚生課内に鳥取市大火義援金品募集委員会を組織し、県広報誌『広報岡山』(昭和27年5月号)に「鳥取市大火災義援金品募集要領」を掲げ、「鳥取市の被災者へ温い救援の手を!」と題して支援を呼びかけました。

4月17日午後3時40分、鳥取市永楽温泉通りの一端から出火した火災は、折からの南西15メートルに及ぶ強風にあふられて、一瞬にして同市の中心街5,070戸を灰燼に帰し、被災者2万5千3百人を数えるという知らせを受けた時、私たちは全く驚がくおくところをしらなかったのであります。災禍によって住むに家なく、着るに衣なき悲惨な状態になった気の毒な人々のことを思う時、到底黙視することができないので、左記要領によって広く一般の方々から義援金品をお願いし、一刻も早く被災者に温い救援の手をさしのべたいと思いますから、何うぞ御賛同下さる様お願い申し上げます。(※写真の文章)
鳥取大火への義援金募集の資料
鳥取大火への義援金募集の資料
(『広報岡山』Vol.1 NO.4、1952年5月号、岡山県企画広報室、岡山県立記録資料館蔵)

 当館所蔵『昭和27年鳥取市大火見舞金関係』(厚生課)には、5月8日から9月11日までに各地から鳥取県に対して寄せられた見舞金の集計が記録されていますが、それによれば、同委員会からの寄付額は3,328,939円で総額(22,632,000円)の14.7%に上りました。知事をはじめとする県、新聞社による大規模な義援金品募集が長く繰り広げられました。

野田卯一建設大臣の日記

 展示写真のなかに、4月29日に視察に訪れた建設大臣野田卯一の姿があります。彼の『野田卯一日誌』が、2013(平成25)年に国立公文書館に寄託され、公開手続きがすすめられています。(注4)。この「日記」で野田の行動を振り返ってみましょう。

 「日記」によれば、野田が大火の発生を知ったのは17日夜の新聞社からの電話で、翌18日午前の閣議では復旧対策本部の設置や緊急資金2億円、住宅金融公庫融資2億円などの方針が早々と決定されています。その後、中田政美事務次官、石破二朗建設局長(いずれも本県出身)が現地に派遣され、復興計画のプランが策定され、23日の参議院本会議で野田が鳥取大火報告を行います。

 野田は28日22時50分発の夜行列車で東京を発ち、翌29日6時半に鳥取駅に到着。鈴木副知事らの出迎を受け、小銭屋別館で休憩・朝食ののち、8時20分には宿を出て市内の数ヶ所の小学校を訪れ罹災者を見舞い激励。県会議事堂と市役所で数々の陳情を受け、記者会見をし、その後、焼け残った富士銀行支店から被災地を一望しました。「屋上ニ上リテ市内ヲ大観ス。焼跡ニ相当ノバラック建チツツアリ」と書き留めています。

 14時50分発の列車で帰途についた野田は、翌朝8時東京に到着後、国会に直行。9時に吉田茂総理大臣に出張挨拶をなし、閣議で鳥取視察の報告を行いました。

 日誌は行動が淡々と記され、野田の感情や意見を窺うことはできません。後に建設事務次官経験者による座談会で鳥取大火を回顧した中田政美は、自身が主導で仮杭打ちを行ったと記し(注5)、野田も中田の追悼記念文集に寄せて、復興計画の主導を中田に任せたと記しています(注6)

おわりに

 今回は、現在開催中の企画展に併せて昭和27年の鳥取大火の一場面を新聞記事や当館所蔵資料で振り返ってみました。

 鳥取大火は、焼失面積、罹災人数ともに今なお戦後最大の都市火災です(地震火災を除く)。また、同年に成立した耐火建築物促進法によって防火地区設定が行われた初の事例です。土地区画整理の進捗の早さも異例でした。そこには、本県出身の二人の建設官僚の実行力とスピードがあったと言われています。

 一方、三木岡山県知事の来訪に象徴されるように、県内外の多くの自治体や企業・個人、はるばるアメリカやブラジルの鳥取県人から寄せられた多額の義援金も復興の大きな財源となりました。こうした多くの人々から寄せられたあたたかい気持ちが、人々に希望をもたらし、復興への大きな原動力となったのです。

 

(注1)『鳥取市大火災誌』災害救護篇、1953年/復興篇、1955年(鳥取市大火災誌編纂委員会)。

(注2)三木行治岡山県知事は医師で、厚生省公衆衛生局長を務めた人物。昭和26年(1951年)48歳で岡山県知事に初当選し、死去する昭和39(1964)年まで知事を務めた。

(注3)三木知事の到着時刻について『鳥取市大火災史』(災害救護編)は17日午後11時過ぎとするが、竹本節著『南風街を焼きぬ-鳥取の大火は何を教えるか-』は鳥取市役所に午前2時頃到着と記す(28ページ)。

(注4)平成25年に孫の野田聖子氏から国立公文書館に寄託されたもの。

(注5)「座談会20年を顧みて 歴代事務次官思い出語る」(『建設時報』1968年7月号、建設省広報室編)

(注6)『中田政美追想録』中田政美氏追想録刊行会編、1978年

 

(西村芳将)

活動日誌:2016(平成28)年3月

2日
資料調査(日南町個人宅、湯村)。
4日
資料編原稿の協議(倉吉市北谷公民館、湯村)。
8日
資料調査・返却(兵庫県立歴史博物館・西宮市個人宅、西村)。
資料調査(~10日、宮城県大崎市、関本調査委員・樫村)。
10日
資料調査(実久神社、岡村)。
14日
資料調査(長通寺、前田)。
15日
青銅器運送(湯村)。
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
県史編さんにかかる協議(鳥取市歴史博物館、岡村・樫村)。
16日
資料調査(島根県公文書センター、前田)。
23日
資料調査(智頭町個人宅、岡村)。
資料借用(鳥取県立博物館、八幡)。
25日
資料調査(奈良市・大阪府個人宅、岡村)。
資料調査・打ち合わせ(倉吉農業高校・米子市立図書館、前田)。
27日
資料検討会(公文書館会議室、西村)。
28日
近世部会史料検討会(公文書館会議室、八幡)。
29日
資料調査(青谿書院、前田)。
30日
軍事編史料検討会(公文書館会議室、西村)。
31日

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編集後記

  熊本地震にて被災された方々に、お見舞いとお悔やみ申し上げます。

 今回の記事は、1952(昭和27)年4月に発生した鳥取大火についてです。1943(昭和18)年9月には現鳥取市を中心とした鳥取地震(M7.2)が発生していますし、鳥取も決して災害が少ないわけではないと認識しなければなりません。

 さて2016(平成28)年3月31日、『新鳥取県史』の「資料編 近代4行政1」「民俗1民俗編」が刊行しました。資料調査や民俗調査に協力していただいた方々にはこの場にて御礼申し上げます。「民俗編」では700名以上の方々に情報提供や聞き取り調査でお世話になりました。しかしながら把握しているだけでも多くの方々が、すでにお亡くなりになっております。準備から刊行まで約10年は事務局としては瞬く間で時間との戦いでしたが、やはり10年の月日は長く貴重なものでもあり、期待されていた方々に成果をお見せできなかったことは無念でなりません。

(樫村)

  

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