第31回県史だより

目次

但馬国人八木豊信の教養と島津家久

はじめに

 天正9(1581)年10月25日、鳥取城をめぐる織田・毛利戦争は織田方の勝利で幕を閉じました。このとき境目に置かれていた因幡・但馬の国人たちは、その後さまざまな運命をたどっていきます。

 今回は、その一人として、若桜鬼ヶ城を守備していた八木豊信(やぎ とよのぶ)を取り上げてみたいと思います。

八木豊信について

 八木豊信は、但馬国八木城(兵庫県養父郡八鹿町)を拠点とする国人領主です。室町期の八木氏は山名氏の重臣として守護支配の一端を担っていました。織田・毛利戦争下においては、当初は毛利方として、その後は織田方として、特に因幡・但馬国境山間部で重要な働きをしています。

 鳥取城落城後、豊信は秀吉から因幡智頭郡の一部を与えられます。

 しかし、その後の豊信の足取りは定かでなく、『八鹿町誌』等も因幡・但馬国境付近にわずかに命脈を保ったと記すにとどまっています。

島津家久と八木豊信

 ところが、近年、「都城島津家文書」の中から八木豊信の自筆書状が見つかり、豊信が九州の島津家久(しまづ いえひさ)のもとにいたことが明らかになりました(注1)

「都城島津家文書」の八木豊信花押の写真

「都城島津家文書」の八木豊信花押(『宮崎県史 資料編 中世2』宮崎県、1994年、より引用)。

「吉川家文書」の八木豊信花押の写真

「吉川家文書」の八木豊信花押(『若桜鬼ヶ城基礎資料整備事業総合調査報告書』
若桜町教育委員会、1991年、掲載写真より引用)。


 島津家久は、薩摩島津義久(よしひさ)の弟で、日向国(宮崎県)佐土原(さどわら)城主です。天正3(1575)年に彼が伊勢詣りをした際の日記『中務大輔家久公御上京日記』(注2)は、戦国期の交通路や各地の様子を知る上で重要な史料となっています。

 豊信がどのような経緯で家久のもとへ赴いたのかは定かではありませんが、ここで注目したいのは、同文書の豊信書状に「家久公右筆」とあり、豊信が家久の「右筆(ゆうひつ)」であった可能性が高い、ということです。右筆とは、主君の秘書役として文書や記録の作成を行う文官のことであり、一般に幅広い教養が必要とされていました。

 これが事実であるとするならば、豊信は遠く離れた九州の地において島津家の秘書に加えられたということになります。では、家久が豊信を右筆として登用した理由は何でしょうか。以下、これを探る手がかりとして、豊信の教養に注目してみたいと思います。

豊信の文化的教養

 豊信の曾祖父に八木宗頼(むねより)という人物がいます。宗頼は室町時代に歌壇の世界で活躍した有名な歌人であり、『草根集(そうこんしゅう)』(注3)にも多くの歌を残しています。片岡秀樹氏によれば、宗頼は一条兼良らとも交流があり、京都では「文武兼備の武将」と評された人物だったようです(注4)

 このような文武両面を備えた八木家の家風は、豊信の教養を育んでいったと思われます。「都城八木家文書」には、豊信の詠んだ和歌短冊が残されており、和歌に対する彼の教養を垣間見ることができます。また、天正3年5月に島津家久は京都で連歌会に参加していますが、このとき豊信の弟の八木隠岐守が連座しています(注5)

豊信と京都文化人との交流

 一方で、豊信自身も都の文化人とさまざまな交流がありました。

 京都の茶人津田宗及(つだ そうきゅう)の日記である『宗及自会記』(注6)によれば、天正9年4月25日に豊信は宗及の茶会に出席しています。

 当時、宗及のもとにはさまざな大名や文化人が日常的に出入りしていました。その中には京都の公家の近衛前久(このえ さきひさ)の名もみえます。このころ、豊信は秀吉に命じられて前久の娘を因幡から丹波まで護衛していますが(注7)、近衛家とも何らかの接点があったものと推察されます。

 また天正10(1582)年2月にも、豊信は宗及のもとを訪れています。このような京都の文化人らとの交流は、豊信の教養にも大きな影響を与えていったものと思われます。

おわりに

 このように考えると、八木豊信は文武兼備の戦国武将であったといえます。家久が豊信を右筆として登用したのも、文人としての豊信の教養に注目した結果であったと考えることができるのではないでしょうか (注8)

 戦国時代、境目に置かれた因幡・但馬の武将たちは、相次ぐ戦乱の中で姿を消していきました。そのような中で、八木豊信は武人ではなく、最後は文人として時代を生き抜いていきます。戦国武将の人生を支えたものは、武力だけではなく、文化人としての教養でもあったのです。

(注1)『宮崎県史 資料編 中世2』(宮崎県、1994年)所収。養父市教育委員会谷本進氏のご教示による。同氏「宮崎県史にみる八木豊信」(八鹿町ふるさとシリーズ第13集『八鹿町の歴史探訪』八鹿町教育委員会、2000年)。

(注2)東京大学史料編纂所所蔵。

(注3)室町時代中期の東福寺の僧正徹の歌集。文明5年成立。

(注4)片岡秀樹氏「『一條殿御会源氏国名百韻』の詠者八木宗頼について」(「ぐんしょ」39号、続群書類従完成会、1998年)。

(注5)『中務大輔家久公御上京日記』天正3年5月13日条。

(注6)『茶道古典全集』(淡交社、1956年)。

(注7)年不詳羽柴秀吉書状(『鳥取県史2 中世』114号文書)。

(注8)八木豊信の人物像、系譜等については、八鹿町ふるさとシリーズ第12集『よみがえる八木城跡』(八鹿町教育委員会、1999年)が総括的にまとめている。

(岡村吉彦)

室長コラム(その25):母校での「ふるさと調べ」

 私の母校である鳥取市立西郷小学校の3年生の担任の先生から、総合的な学習の時間で取り組んでいるふるさと調べに協力してほしいと依頼があり、秋の一日、子供たちと共に校区内の各地をマイクロバスで回った。

 西郷小学校は、旧八頭郡河原町の山間部にある小さな小学校だ。私が通っていた頃は、1学年の児童数は50名だったが、今年の3年生は17人、それでも全学年の中で一番多い人数だという。その日は、子供たちがそれぞれ自分の住む村のなかで自慢できるものを見つけて、それについて調べたことを、他の地区に住む同級生に説明し、私が若干の補足をしていくという内容だ。全部で7つの地区を回ったが、子供たちの発表の中には、私も初めて知る内容もあり、楽しい時間を過ごさせていただいた。

 中でも嬉しかったのは、村の中の石碑や石仏を子供たちが取り上げてくれたことだ。石碑や石仏は、それを造った村の人々の願いが込められており、それを今の子供たちが感じてくれればありがたいと思った。石碑の一つに、光明真言塔があった。村人が集まって、「おんあぼきやべいろしやのう…」という真言を唱え、その唱えた回数が百万辺に達したことを記念して建てられたこと、そして、短い呪文でも、百万辺も唱えるためにはものすごい時間がかかること、それでも村人が行ったのは、村全体が幸せになることを願うためだろうと説明した。

 後日、西郷小学校の学習発表会があり、私も関係者として招待された。3年生は、私と一緒に回ったふるさと調べの内容を発表してくれた。子供たちは、自分たちの調べたことを一生懸命に伝えていた。中に、光明真言を暗唱する場面もあり、覚えにくい真言をよく覚えたと感心した。

 そのあと、担任の先生から、「子供たちは、ふるさと調べを通じて、自分たちの住んでいる地域の歴史と伝統に自信を持ったようで、もっと調べたいと言っている」という御礼のメールをいただいた。「地域の歴史を知り、地域に誇りを持つ人づくり」という県史編さん室のミッションが、少しは達成されたかと、嬉しい気持ちにさせていただいたメールだった。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年10月

2日
資料調査(鳥取市歴史博物館、大川)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
4日
県史編さん専門部会(中世)開催。
部会県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
日本民俗学会年会(~5日、熊本大学、樫村)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
史料調査(南部町大安寺、岡村)。
9日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
10日
資料調査(大山町大山寺、坂本)。
15日
資料調査(岩美町田後漁業協同組合、樫村)。
16日
全国都道府県史協議会(名古屋市、坂本)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
22日
高等学校教員研修(日本史)講師(県教育センター、岡村)。
23日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
30日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 11月18日に鳥取市で初雪が降りました。調査等で外に出ることが多い県史編さん室としては、早い冬の訪れとたくさんの雪は遠慮したいものです。
 さて今回は京都文化人との交流で高めた教養で戦国時代という乱世を生き抜いた但馬国人八木豊信と、小学校で行われている「ふるさと調べ」という郷土学習についての記事となりました。八木氏のような地域縁の人物が約400年後、遠い地に移ったとはいえよい消息が判明すると、やはりほっとします。「ふるさと調べ」に関連して私事ですが、9歳の息子は国内4県と海外でも生活してきたため「ふるさと」といわれると現在もどこだろうと迷っています。しかし最近では一番好きな場所が「鳥取砂丘」になり、鳥取が「ふるさと」に一歩近づいてきた様子をほほえましく感じるこの頃です。

(樫村)

  

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