第32回県史だより

目次

前田正名の来県日程

 1895(明治28)年10月29日午後1時、鳥取市新鋳物師町の劇場、宝座で、ある講演会が開かれました。

 壇上に立ったのは、元農商務省次官の前田正名(まえだ まさな)です(注1)。地方産業の振興による国力増進を訴える彼の熱弁は、休憩を挟みながら約3時間にわたり、集まった聴衆は約3千名、会場の外にも人が溢れたといいます。これは前田に近い筋による記録ですから、多少の誇張は疑うべきでしょうが、相当な盛況だったことは確かのようです。残された筆記録からは(注2)、国家主義色が強い論調のなかにも、明治の熱い息吹が伝わってきます。

 ところで、この講演会では、鳥取県中央勧業会の幹事、秋山忠直(あきやま ただなお)が開会の辞を述べています。鳥取県中央勧業会とは、県内の実業団体を一元化するために設立された組織ですが、実は、この日の午前中に発会式を終えたばかりで、前田はそこにも出席し、祝辞を兼ねた演説を行っています。列席者には、国・県・市町村の議員、県の幹部(注3)、鳥取市長や近隣の郡長なども名を連ねました。

 鳥取県における前田の活動は、これだけではありません。正味5日間の滞在中、彼は県内各地で講演会や工場視察を精力的に行っています。その最後のイベントが、宝座での講演会でした。彼の行くところ、花火・国旗・緑門とともに市民の歓迎を受け、県内の実業家や政治・行政の要職にあった人物たちが訪れたといいます。

 こうした活動を通じ、前田は、県の実業界・勧業行政に少なからぬ影響を与えたと考えられます。事実、実業団体の組織化は、地方産業振興の方策として彼がとくに必要性を強調していたところですし、第23回「県史だより」でご紹介した「町村是調査」に基づく農村経済再建の運動もまた、彼の提唱から繋がるものなのです。

 しかし、来県中の前田については、これまであまり紹介されることがなかったように思います(注4)。そこで、彼の足跡をまとめてみることにしましょう。

 彼の鳥取県訪問は、全国各地を回る長い遊説の途中、1895(明治28)年10月25日に松江発の汽船で境港に上陸するところから始まります。そして、県内を西から東へと移動しながら、以下のような日程をこなしていきました。(なお、「談話」とあるのは資料の表記にあわせたものですが、実際は「講演」というべき内容だったと思われます。前田は、視察先の各工場でも、工女を集めて「談話」を行ったといいます。)


25日
10時発の汽船で松江市から境港へ。到着後、昼食をとり、寺院で談話(会場は不明)。
午後、米子へ向けて再び乗船。4時に到着後、談話(会場は不明)。夜、有志と懇親会。
26日
朝7時、製糸工場3ヶ所を視察。ただし、全て休業日で、1工場のみ臨時開業。
8時頃、倉吉へ向けて出発。途中、名和神社に参詣、八橋町の羽二重工場を視察。
午後5時、倉吉に到着。
27日
朝8時、製糸会社を視察。
9時、県立簡易農学校の開校式で演説。
午後2時、寿座で談話会、約2千名の聴衆。その後、製糸工場2ヶ所を視察。
夜、大岳院で懇親会、約3百名の有志。
28日
朝7時、製糸場を視察の後、鳥取市へ向けて出発。
正午頃、青谷に立ち寄って有志と談話。
午後4時、鳥取市に到着。
29日
朝8時、元部下の墓参の後、刺繍工場・羽二重工場・製糸工場などを視察。
10時、鳥取中央勧業会の発会式(会場は真教寺)で演説、約100名の有志。その後、県立物産陳列所を視察。
午後1時、宝座で談話会、約3千名の聴衆。
30日
鳥取県を離れる。

 米子から東の移動について、前田は陸路をとったようですが、この頃、まだ県内には鉄道が登場していません。彼の主な移動手段は、人力車だったに違いありません。

 実に過酷な行程というべきですが、仮に来県が10年あまり早かったとすると、それはもっと厳しいものになっていたはずです。その頃、県内の道路は整備がいきわたっていなかったからです。例えば、1882(明治15)年版『鳥取県統計書』によると、鳥取~米子の伯耆街道(米子街道)のうち湖山~長瀬には「車ノ通セサル」区間が含まれていたといいます。次の調査結果を載せる86(明治19)年版では、街道の全てが人力車・荷車の通行可能となっていますから、この間に街道の整備がかなり進んだわけです。

 10月26日、青谷での談話を終えて彼が東へ向かったところ、「途中より出迎人追々加はり、鳥取市に至る迄には、一行の車を聯ぬる数丁の長きに亘る」状況になったといいます(注5)。前田に対する鳥取県民の歓迎ぶりを伝えるとともに、人力車が連なって駆けるほど改修の進んだ街道の様子を窺わせるエピソードといえるでしょう。

(注1)本記事中、鳥取県における前田正名の活動については、西川太次郎「山陰地方に於ける巡回要報」(『産業』第23号,産業社,1895;『明治中期産業運動資料』第2集第20巻の2,日本経済評論社,1979)、同『全国週游日記』(西川太新,1897;国立国会図書館ホームページ「近代デジタルライブラリー」)により、そのほかの前田に関する記述は、祖田修『前田正名』(吉川弘文館,1973)によります。なお、西川太次郎(太治郎)は、前田に共鳴して遊説に同行した元『近江新報』記者で、後に滋賀県の大津市長や衆議院議員などを歴任(祖田前掲書167~168頁)。

(注2)「前田正名君全国周游最後ノ演説」(近藤康雄編『興業意見・所見 前田正名』(明治大正農政経済名著集1,農山漁村文化協会,1976)。

(注3)野村政明(のむら まさあき)知事は、上京中のため欠席。

(注4)例えば、鳥取県編『鳥取県史 近代第3巻経済篇』(1969)は、鳥取県中央勧業会発会式への出席について簡単に触れている(177頁)のみです。

(注5)前掲『全国週游日記』123頁(読点は引用者)。なお、1丁(町)は約109m。

(大川篤志)

室長コラム(その26):刀工兼先は、同時代に3人いた

 江戸時代、刀は武士の必需品であり、鳥取にも何人かの刀鍛冶がいた。中でも、日置兼先(かねさき)一門は有名で、江戸初期から明治まで8代続いたとされている。兼先を称した刀鍛冶は、鳥取藩のお抱えではあったが、身分は武士ではなく、職人である。身分の低い彼らの記録はほとんど残らず、そのため、詳しい経歴等はよくわからないのが実情だ。

 そんな中で、鳥取藩「家老日記」の享保5(1720)年2月19日に興味深い記事がある。幕府が全国の刀工について行った調査に対する鳥取藩の回答を記したものである。

 それによれば、鳥取藩内に当時刀工は5名おり、内2名は「忠国」を名乗る親子で、残る3名が兼先一門である。

 3名の内訳は、日置兵助(当時45才)、日置源次郎(同38才)の兄弟と、苗字のない三治という者(同33才)。兵助・源次郎の祖父の惣十郎は、美濃国(現岐阜県)関で修行し、その後美作国(現岡山県)に移り、江戸時代初期の元和年間に因幡に移り住んだとされている。一方、三治の祖父弥左衛門は、美作国津山から因幡に移り、以後3代にわたり家業を勤めているという。兵助・源次郎兄弟と三治の関係は、祖父の経歴に共通する点が多いことから、先祖は同族あるいは師弟関係にあったと思われるが、当時は2家に分かれているようだ。兵助・源次郎は苗字を持っていることから、藩お抱えの刀工であり、三治は苗字を持っていないことから、藩お抱えではなかったと思われる。

 この3人の刀工の記載には、それぞれ「鍛冶銘」が記されている。「鍛冶銘」は、作品に刻む銘文上の名前であろうが、3人とも「鍛冶銘」は「兼先」とされている。つまり、この3人が作った刀には、いずれも「兼先」の銘が刻まれるわけで、同時代に「兼先」を名乗る刀工が3人いることになる。

 私たちは、同時代に同一の名前を持つ者は一人と、当たり前のように考えてしまうが、刀工については、実際にはそうではないようだ。最初に兼先は8代続いたと記したが、ここに紹介した源次郎と三治は、この代数に入らない兼先である。「兼先」という名前は、作者の名前というより、商品名に近いのかもしれない。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年11月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
4日
民俗調査(~6日、米子市・大山町、樫村)。
7日
中世史料調査(~8日、東京大学史料編纂所・群馬県前橋市、岡村)。
11日
中学校教員研修(歴史)講師(県教育センター、岡村)。
資料調査(島根大学附属図書館、樫村)。
12日
西日本監査事務研修会(郷土史)講師(とりぎん文化会館、岡村)。
13日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
14日
中世史料調査(八頭町、岡村)。
17日
中世史料調査(南部町大安寺・大山町大山寺、岡村)。
19日
民俗調査(智頭町、樫村)。
20日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
26日
資料調査(米子市尚徳公民館他、大川)。
27日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
28日
民俗調査(若桜町、樫村)。

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編集後記

 平成20年も残すところわずかとなりました。年末にきてアメリカの金融危機を発端として歴史的な世界恐慌が深刻な状況になってきています。学校の教科書で学んだ1929年10月のアメリカウォール街の株価暴落をきっかけに起こった1930年代世界的な恐慌以上になるのではないかといわれていますが、まさに歴史的な出来事が今、現実に進行しています。ただ私としては教科書にあった世界恐慌の緊迫感と現在の実感は必ずしも一致しないというのが本音です。しかし1930年代の世界恐慌後、世界が暗い戦争へと向かっていった歴史があります。このあたりに目の前の現実と実感のみならず歴史に学び対応する重要性があると感じます。

(樫村)

  

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