第43回県史だより

目次

『孫や子に伝えたい戦争体験』を刊行

 県史編さん室ではこのたび、新鳥取県史手記編『孫や子に伝えたい戦争体験』を刊行しました。上巻には従軍体験、中国大陸での生活、満蒙開拓団・青少年義勇軍に関する手記56編を、下巻には銃後の暮らし、勤労動員、国民学校の思い出、空襲や被爆、戦地慰霊に関する手記53編を、あわせて109編の手記を掲載しています。平成18年度の募集状況と掲載手記の一部は、以前この県史だよりでもご紹介しました。

新鳥取県史手記編『孫や子に伝えたい戦争体験』上巻表紙の写真
新鳥取県史手記編『孫や子に伝えたい戦争体験』上巻

応募手記の概要

 掲載手記の40パーセント近くを男性の従軍体験が占めました。郷土部隊である鳥取歩兵四〇連隊や松江歩兵六三連隊などの中国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)での戦闘体験、第十師団管下の工兵・輜重(しちょう)兵・砲兵連隊の体験や、海軍の経験が含まれ、それぞれの戦闘の様子が具体的に描かれています。

 男性の手記に対して、女性の手記は家庭・学校生活と勤労動員に関するものが過半数を占めました。父や夫を待つ留守家族の暮らし、奉仕作業や勤労動員派遣先での激務について記されたものも少なくありません。

 就職等で旧満州(中国東北地方)や朝鮮半島に移り住んでいた県民の生活体験や引き揚げ記録も予想以上に多く、戦前の日本と大陸とのつながりの強さをあらためて感じさせるものとなりました。

編集作業の留意点

 手記は、歴史体験を当事者の言葉でいきいきと表現できるとても魅力的な手法です。ただ、県史編さん物として刊行するためには、編集の点で注意しなければならないこともありました。

 例えば、筆者の記憶違いや誤解、誇張などが知らず知らずのうちに文章の中に入り込んでいる場合があります。矛盾している事柄があれば、他の手記や文献資料と照らし合わせて、注意深く訂正する必要がありました。

 また、執筆者本人には当たり前に使用されている言葉でも、世代を超えては伝わりにくい用語もありました。例えば、「千人針」(せんにんばり)、「奉公袋」(ほうこうぶくろ)などの歴史用語、「歩哨」(ほしょう。兵営や陣地の要所に立って警戒・監視にあたること)、「堵列」(とれつ。大勢の人が垣のように並び立つこと。特に、軍隊が天皇などの送迎・護衛・警戒などのため道に整列すること)などの軍隊用語、「かます」(わらむしろで作った袋で穀物や石炭等の運搬に使用)、「いとば」(川の洗い場)などの生活に密着した言葉です。このような言葉にはできるだけ注釈を加え、また、旧満州や中国大陸などのなじみのない地名が頻繁に登場する手記には、地図を作成して掲載しました。

歴史の肌ざわりを伝える

 本書に収められた手記は、平成18年度の募集呼びかけに応じて寄稿されたもので、鳥取県民の戦争体験のすべてを物語るものではありません。しかし、戦後60年以上経った今日、薄れゆく戦争の記憶を孫や子の世代に記録として残したいという寄稿者の願いを十分に表現したものとなっています。

 手記を歴史資料としてそのままのかたちで利用するのは容易ではありませんが、体験した本人しか知り得ない事実や感覚を、本人の文章で表現する手記という手法は、公文書などからでは得られない歴史の肌ざわりを記録化し、読者に伝えます。そして、他の文献資料や聞き取りなどから得られる史実とつきあわせることによって、県民が生きぬいた戦争の時代が豊かに立ち上がってくるのです。

(西村芳将)

室長コラム(その36):大庄屋はつらいよ

 このコラムでも度々紹介しているように、現在、東伯郡琴浦町篦津(のつ)の河本家文書の調査を行っている。河本家は、代々この地域の大庄屋を勤めた家で、同家には大量の大庄屋文書が残されている。

 大庄屋は、通常、各郡ごとに2~3名が任命され、それぞれ担当地域(構え)を受け持っており、宗門改めを除いて、年貢の納入をはじめ、現在の市町村役場が行うような仕事の一切を引き受けていた。補佐する者は何人かいただろうが、最終的には大庄屋一人の責任になるため、その仕事は大変な激務だったと思われる。大庄屋の仕事の大変さを、別の面から感じさせる興味深い史料が河本家文書の中に残されていた。河本家の10代直三郎(後、伝九郎)が文化12(1815)年4月に大庄屋に任命されることとなり、そのために鳥取に出向いた際に作成した、「御役人様方勤帳」と「大庄屋御請諸入用帳」という史料がそれである。

 「御役人様方勤帳」は、大庄屋へ任命された後、直三郎が就任の挨拶に廻った藩の役人の名を列記したもので、これによれば、直三郎は、まず、領内の農村部を管轄する在御用場で、その長である郡代、そして、御鉄砲奉行、御新田方、在御目付、在御普請目付等の役人、さらには役所の門番まで、上下あわせて54名に挨拶し、ついで、藩財政を扱う勘定所、海岸部を管轄する御船手、領内の寺院神社を管轄する寺社奉行、さらに、河本家と同じ八橋郡内にある八橋の町を管轄した重臣の津田家を訪ねている。また、鳥取からの帰りには倉吉へ立ち寄り、倉吉詰めの藩士にも挨拶しており、この旅行中、直三郎が会った役人は、実に合計147名に上っている。大庄屋は、これだけ多くの役人と仕事上付き合う必要があったということだろう。

 そして、役人に会う際には、手ぶらというわけにはいかなかった。この史料には、役人の名前の他に、直三郎がそれぞれに贈ったと考えられる品物が記載されている。例えば、郡代の加藤主馬へは青谷木綿1疋(2反)と鰹節20、在御普請目付の3名へは綿150匁と鰹節10、倉吉組士の4名へは鰹節10に白米2升、という風に、相手によって品物を微妙に変えながら、名前が挙がったほぼ全ての役人に、何らかの贈り物をしている。その全体は、鰹節790本、木綿8疋、綿4025匁、小豆2斗8升、白米5斗、現金28匁に及ぶ。

 その贈り物の購入費を含め、鳥取への出発から帰村まで、直三郎が使ったお金の金額と項目を記したのが「大庄屋御請諸入用帳」だ。直三郎は4月22日に篦津を出発、その日は泊村(現湯梨浜町泊)に宿泊、翌23日に鳥取着、24日は在御用場で大庄屋の任命を受け、28日まで鳥取に滞在して各役所に挨拶廻りを行い、29日鳥取から倉吉に向かい、翌日帰村しているが、その間に使った総額は銀1131匁余。現在の貨幣価値に換算するとどれくらいになるのかは難しい問題だが、高めに推計すれば数百万円、低く推計しても百万円以上にはなる。そして、お金の半分以上は、贈り物用の鰹節や青谷木綿などの購入に当てている。お金は勿論直三郎の自腹である。大庄屋の仕事を行う上で、藩の多くの役人と良好な関係を持つためには、このような贈答が必要だったのだろうが、そのためにかかるお金はかなりの額だ。2つの史料は、大庄屋の仕事が楽ではないことを私たちに教えてくれる。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年10月

2日
資料返却および調査(琴浦町篦津・湯梨浜町松崎、坂本)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
日本民俗学会年会(~4日、国学院大学、樫村)
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
8日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
14日
民俗調査(三朝町、樫村)。
15日
第40回全国都道府県史協議会(公文書館会議室)。
16日
資料調査(鳥取市あおや郷土館・鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
19日
古郡家1号墳墳丘測量(~12日、鳥取市古郡家、湯村)。
22日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
23日
資料調査(米子市尚徳公民館、西村)。
24日
広島史学研究会(~25日、広島大、岡村)。
26日
古郡家1号墳墳丘測量(鳥取市古郡家、湯村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
27日
民俗調査(両墓制)協議(米子市、樫村)。
28日
新鳥取県史シンポジウム協議(鳥取市歴史博物館、大川)。
29日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
31日
古郡家1号墳墳丘測量(鳥取市古郡家、湯村)。

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編集後記

 今回の記事のとおり、『孫や子に伝えたい戦争体験』を刊行しました。これを読んでみると、戦争の悲惨さを改めて感じさせられます。この戦争体験は全ての世代の方々に読んでいただきたいですが、特に若い方に読んでいただき、現在の平和が尊い犠牲の上に成り立っていることを感じていただきたいと思います。

(樫村)

  

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