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明治14年 鳥取・島根の事務引継トラブル ~地方税分割問題~(後編)

政府による裁定

 旧鳥取県史の記述によれば、政府裁定は紆余曲折の末、明治15年6月になって以下のように示されました(注1)

1.地方税分割については、鳥取県側の主張を全面的に認める。
2.県有物分割については、現実面での弊害を避けるため「政略上ノ裁判ヲ以テ、島根県申牒ノ如ク」行う。但し、主張の是非については、鳥取県側のものが理論的に正当なものである。

 この裁定が出るまでに、実に半年もの時間を要していますが、『鳥取県へ事務引渡書』からも、政府内で裁定をなかなか決めかねている形跡が伝わってきます。島根県は、伺から2ヶ月が経過しようとしていた2月13日、裁定を早く出してもらうよう内務・大蔵両卿に文書を提出し、さらに翌日も同じような内容の電文を打電しています。結果、その3日後の同年2月16日、両大臣から文書で「書面伺之趣、地方税金ヲ分割スルハ、鳥取置県、土地・人民引渡以前ニ係ル実費ヲ引去リ、剰余ハ当初ノ徴収額ニ拠リ分割可致。其他ハ渾(すべ)テ其県見込之通リ可取計事」と島根県へ回答が示されました(注2)。つまり、このタイミングで内務・大蔵両卿署名の裁定が、いったんは文書で下されていたのです。

 ところが、28日になって、内務卿から島根県令へ「地方税分割方伺ハ、太政官ヘモ伺ノ積。決ヲ詮議中ニ付、急速指令ニハ及ヒ難シ」との電報が追って島根県へ到着しました。この12日間の政府周辺の様子を簿冊からは知る事ができませんが、この裁定は確決には至らず、なおも高いレベルでの判断を要する案件となっていたようです。

 いずれにせよ、2月16日の回答と6月の実際の結果との間では内容に大きな変化が起こっていないので、4ヶ月の間、政府内では結論が変わることのなかった議論を継続していたことになります。

両県のやりとりから

 今回、この地方税分割問題に関する資料を通していえることは、当時の地方統治に関わる官僚たちが、この時期の地方制度に対する思想や認識をなかなか共通のものとし得ていなかったということです。

 県有財に関しては、鳥取県側は人民共有物、すなわち公有物としての認識が強く、より公平性を重要視していたこと、一方、島根県側は官有物としての認識から、より行政上の合理性を重要視していたことがわかりました。そして政府は、これについての見解をはっきり定めておらず、この問題を迅速に処理することができなかったのです。

 この一連のやりとりは、明治政府が体系的地方統治制度を構築できておらず、当時試行錯誤を繰り返していたことを示す好例といえるでしょう。府県の改編がたびたび試みられる中で、地方の史料は特に、そのとき末端でどういう具体的問題が発生していたかを、より雄弁に伝えてくれます。

 一方で、拠るべき制度の根拠や方針が不安定なまま、地方の現場に立って幾多の課題に直面していたであろう官僚の個人個人は、注目に値します。特に、県有財産の計算を「不可行」とした島根県の意見に対し、「30日あればできる」と即座に否定してみせた山田信道をはじめとする鳥取県の幹部スタッフの能力は、なかなかのものと思いますが、いかがでしょうか。

 この地方税問題を通して、特徴的に新しく原則のようなものが生みだされていたとすれば、裁定によって「予算単年度主義は府県分合の措置に優先しない」ことがはっきりと示されたことでしょう。これは、自然その後この考え方が前例となっている可能性も考えられます。以後の府県再編事務に与えた影響については、機会をみてさらに調べてみたいと思います。

おわりに

 蛇足になりますが、最後にこの地方税分割をめぐり予算の議定権をもっていた地方県会がどのように扱われていたかについて、少し触れておきます。今回のやりとりでは、両県ともに自らに有利な「協議」をすすめようと、巧みにそれぞれの県会の存在を利用しながら各々の主張を展開していました。上述のように島根県は、県会の議決を徹底して貫き尊重しています。しかし、実際の島根県会は執行部に対して対立的側面が強く(注3)、その姿勢は県会をリスペクトしているというよりも、これを楯に自らの有利を導こうとしていた意図が透けて見えます。また、鳥取県側も、置県後の鳥取県会の効力を尊重すべき主張を展開してはいますが(注4)、実際のところ、県会へは島根県や政府とのやりとりの情報を確決に至るまで全く流さず、終始蚊帳の外におく扱いをしています(注5)

 ある高校の教科書に、明治11年の地方民会の整備について、「県会を通してある程度の民意をくみ入れられる地方制度となった」との記述がありますが(注6)、この表現はなかなか微妙なところであると思います。「府県会規則」で定められた予算議定権にかかわる問題であっても実際は深く立ち入れなかった県会の実態は、やはり過大に評価はできないと思います。

(注1)鳥取県『鳥取県史 近代二巻 政治篇』1969 167頁~168頁

(注2)「坤第二一四弐号」『鳥取県へ事務引渡書 明治14年』群1-1887 島根県公文書センター

(注3)島根県『新修島根県史 通史篇2 近代』1967 229頁

(注4)「庶第五十号」『鳥取県へ事務引渡書 明治14年』群1-1887 島根県公文書センター

(注5)「建議書」『明治15年県会議事録六月』鳥取県立図書館蔵 第六号3頁

(注6)石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜敏彦ほか『改訂版詳説日本史』山川出版社2006 253頁

(前田孝行)

資料紹介【第14回】

「天正四年山田重直外四名連署起請文案」について

天正四年山田重直外四名連署起請文案古文書 

 ここに紹介する文書は「小寺家文書」に含まれる1点です。天正4年(1576)10月16日に山田重直をはじめ5人の武将が南条元続に提出した起請文の草案(下書き)で、このような清書前の草案を「案文(あんもん)」と呼びます。

 「小寺家文書」は毛利配下の小寺家に伝来した古文書群で、現在も戦国時代を中心とする68点の原文書が子孫宅に保管されています。その大部分は、毛利氏、吉川氏、大友氏らの戦国大名が小寺元武に宛てた文書です。個人や寺社宛ての文書が受取側の家や寺社に残されることは珍しいことではありません。

 しかしながら、この文書については、小寺家に伝来したにも関わらず、宛名は小寺氏ではなく、内容的にも小寺氏に関係するところは見られません。

 なぜ、この文書が「小寺家文書」に含まれているのでしょうか。以下、この点について考えてみたいと思います。

 まず、文書の内容を確認しておきたいと思います。宛名の南条元続は、東郷池の南に位置する羽衣石(うえし)城の城主で、伯耆最大クラスの戦国武将です。また指出人の鳥羽久友・山田重直ら5名は、当時南条家の中枢を担っていた重臣たちです。

 内容は、重臣たちが毛利家や南条家のために尽くすことを南条元続に誓ったもので、このような文書は起請文(きしょうもん)と呼ばれます。起請文とは、約束や契約を交わす際にそれを破らないことを神仏に誓う文書で、前半に約束の内容を書き、後半には違反した場合は神仏の罰を受けるという文言を記した「神文」「罰文」を書きました。これは案文ですが、清書して花押を添えたものがおそらく南条元続に提出されたものと考えられます。

 では、なぜこのような起請文がこの時期に作成され、その案文がなぜ小寺家に残されたのでしょうか。

 これを繙(ひもと)くため、天正4年の伯耆国内の動きを見ていくことにしましょう。

 天正4年、織田信長と毛利輝元は全面戦争に突入します。因幡・伯耆でも軍事的緊張が一気に高まりました。そのような中、南条家中で大事件が起こります。南条家臣の福山茲正が敵である織田方へ内通していたとして誅殺されたのです。この福山は南条家臣ですが、毛利家内部では織田方に内通しているという噂がすでにあり、毛利側の史料にも「不忠之仁」であったと記されています。

 これに対し、毛利方の吉川元春は山田重直らを自陣に呼び、福山の対応を協議しました。それを受けて山田は帰国した翌日に福山を呼び出し誅殺します。これについては毛利輝元自身もその働きを賞賛しています。

 一方で、この直後に元春は山陰東部に滞在していた小寺元武を南条家中に派遣しました。当時、小寺元武は10年以上にわたって毛利の九州経略や山陰経略を担っており、外交担当者として戦線に派遣され、相手方との交渉や、国人間の対立の調停にあたっていました。

 当時、山陰東部では敵である尼子勝久勢が因幡を中心に活動しており、山陰経略を進める毛利氏にとって、この時期に伯耆最大の勢力を持つ南条家中が混乱に陥ることは何としても避けなければなりませんでした。そのため、外交能力もあり、因幡・伯耆方面の調略にも長けた小寺元武を南条家中に派遣して、事態の収拾を図ったものと考えられます。

 その後、南条家中では、重臣5人が元続に対して起請文を提出することで、家中の混乱はひとまず落ち着いたものと思われます。この起請文の案文が小寺家に残されているのは、その作成や、それにともなう一連の動きが小寺主導のもとで行われたためと考えられ、南条家中に対する小寺元武の働きが大きかったことを示しています。

 今回は「小寺家文書」に残る1点の案文に注目しました。内容そのものが小寺家に直接関係するものでなくとも、この文書がなぜ小寺家に残されているのかを、当時の時代的背景や小寺氏の働きをふまえつつ考えていくと、さまざまな歴史が見えてきます。

 古文書を読む楽しみはこのようなところにもありそうです。

(岡村吉彦)

活動日誌:2015(平成27)年6月

1日
資料調査(JR米子支社、前田)。
2日
資料返却・借用(若桜町教育委員会・甘露神社、岡村)。
民具調査(江府町歴史民俗資料館・大山町教育研究所、樫村)。
5日
資料調査(湯梨浜町羽合歴史民俗資料館、湯村)。
鳥取市文化財審議会(鳥取市役所第二庁舎、樫村)。
6日
古代中世部会(公文書館会議室)。
現代資料検討会(公文書館会議室)。
11日
遺物借用(北栄町歴史民俗資料館、湯村)。
出前講座(伯耆町二部公民館、渡邉)。
民具調査(黄蓮関係)(智頭町福原、樫村)。
12日
資料調査(湯梨浜町羽合歴史民俗資料館、湯村)。
14日
史料調査(河原町個人宅、渡邉)。
16日
資料返却(甘露神社、岡村)。
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
17日
資料調査(倉吉博物館、西村)。
18日
遺物返却(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
資料調査(尚徳公民館、前田)。
民具調査(江府町歴史民俗資料館、樫村)。
21日
史料調査(公文書館会議室、渡邉)。
23日
史料調査(智頭町誌編さん室、渡邉)。
資料調査(倉吉市、樫村)。
24日
軍事兵事編資料検討会(公文書館会議室、西村)。
25日
民具調査(江府町歴史民俗資料館、樫村)。
26日
資料調査(湯梨浜町羽合歴史民俗資料館、湯村)。
史料調査(岩美町立図書館、渡邉)。
満蒙開拓に関する取材(敬愛高校、西村)。
30日
考古部会(公文書館会議室)。
民俗部会(公文書館会議室)。

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編集後記

 今回は、明治14年の鳥取県再置をめぐる鳥取・島根の事務引継トラブルの結末です。双方に配慮した政府裁定ではないでしょうか。隣同士で深い遺恨を残す訳にもいかず、裁定する側にとっても大変な作業であったと思います。

 さて、久しぶりに「資料紹介」も掲載しました。文書の内容のみではなくそれを所有している家の歴史を含めた中世史料の読み解きです。

 ともに興味深い記事となりましたので、お楽しみください。

(樫村)

  

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