第117回県史だより

目次

中世因幡の地域社会―勝部川流域を中心に—

はじめに

 最近、「地方創生」「地域活性化」など、「地方」「地域」という言葉が多く聞かれるようになりました。

 地域に残る古文書や棟札・石造物などは、地域の歩みや、そこに生きた先人たちの営みを今の我々に伝えてくれる大切な資料です。個々の資料の内容や背景を丹念に読み解いていくと、目の前には過去の世界が広がっていきます。同時に、それらの資料は、地域の魅力はもとより、先人たちの知恵や多くの教訓を我々に与えてくれます。自分たちが住んでいる地域の歴史や文化を知ることは、地域の将来像を考えていく上でも重要です。

 このような観点から、今回は因幡国西部の勝部(かちべ)川流域を取り上げ、当時の史料をもとに、中世のこの地域にどのような世界が広がっていたのか、人々がどのような営みをしていたのかなど、中世因幡国西部の地域社会の特質に迫ってみたいと思います。

中世の勝部郷について

 現在の鳥取市青谷町を流れる勝部川。中世以前、この流域一帯は「勝部郷」と呼ばれていました。中世後期の勝部郷は大きく「東分」「西分」に分かれており、『青谷町誌』によれば勝部川を挟んで東側、西側であったとされています。近世以降は川に沿って下流から「下郷」「中ノ郷」「奥郷」というまとまりが一般的になりました。

地図

 中世の「東分」「西分」のうち、「東分」はもともと京都相国寺の塔頭(たっちゅう)である大徳院(現在の慈照院)の寺領でした。応仁の乱の頃には一時的に室町幕府の直轄領となりますが、乱後に再び大徳院に返還されています。

 戦国時代に入ると、勝部郷は実質的に大徳院の手を離れ、さまざまな武将が勝部郷を分割支配するようになります。史料から確認できるだけでも、この地域に権益を持っていた武将には、因幡山名氏重臣の中村氏や秋里氏、有力な地域武将である山田氏や小森氏があげられます。また郷内には「但州領」と呼ばれる但馬守護山名氏の直轄領も存在していました。戦国末~近世初めには鹿野城主の亀井茲矩(かめいこれのり)が統治していきます。

 このように中世の勝部郷は多くの有力者との関わりが確認できます。特に室町幕府や守護の直轄領があったり、守護の重臣や有力国人たちの権益がこの地域に存在していたことは重要です。このことは当時の勝部川流域が武士たちにとって魅力的な地域であったことを示唆しています。

 では、中世の勝部川流域にはどのような世界が広がっていたのでしょうか。以下では、当時の史料をもとに、4~500年前のこの地域の姿に迫ってみたいと思います。

中世~近世初頭の勝部川流域

 中世の勝部川流域の特徴を考える上で、まず注目されるのが、この地域が生み出す多種多様な数々の産物です。

 例えば、以下の史料に注目してみましょう。文禄5年(1596)、亀井茲矩は勝部川流域の八葉寺(はっしょうじ)村に対して、以下のような「禁制」を出しました。

禁制1
(『因幡民談記』)

 これは亀井茲矩が、「奥郷」に対して、伐採してはいけない樹木や山草の種類を書き上げたものです。茲矩は豊臣・徳川政権下で朱印船貿易や産業の振興に力を尽くした武将です。「奥郷」とは勝部川の奥郷のことで、鳴滝村・八葉寺村・田原谷村・紙屋村・楠根(くすね)村・澄水(すんず)村・桑原村を指すと考えられます。

 この史料は、茲矩が山林資源の保護を命じたものとしてよく知られていますが、ここで注目したいのは、中世末期の勝部川の上流域に、これらの樹木山草が生育していたという事実です。これらの産物は、さまざまな用途に用いられる原材料でもありました。『鹿野町誌』よれば、桑は養蚕、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)は製紙、椿は油、桐・榧(かや)・ちなひ(エゴノキ)・あさかひ(タブノキ)は建築材や用材、栗や柿は食用や建築材などに用いられたとあります。

 また、正保2年(1645)に松江重頼という俳人が記した『俳諧毛吹草』にも「勝部谷村々、鮭、鮎、大豆、小豆、楮、桑、大竹、真綿、槐、下等茶、階田紙、上中下諸種の鼻紙、美濃紙、釜敷紙、八葉寺に漆、茗荷、早松茸あり…」とあり、近世初期にさまざまな産物や加工品がこの地域で見られたことがわかります。

 このことから、中世の勝部川流域はさまざまな産物を生み出す自然資源の宝庫であったことが窺えます。同時に、それらの生産や採取・加工を生業として生活する人々がいたであろうことも想像に難くありません。

 勝部川流域は、今なお高い山に囲まれた深い谷あいにあり、当時の景観を色濃く残しています。この地域で生み出される豊かな自然の産物は、この地域に生きた中世の人々の日常生活や生業を支えていたものと推察されます。

他地域とのつながり

 勝部川流域で生み出された産物や加工品は、さまざまなルートで各地に運ばれました。次に他地域とのつながりについて考えてみたいと思います。

(1)日置郷とのつながり

 勝部川の東側の谷には日置川が流れています。日置川は下流で勝部川と合流して日本海に注いでいます。この日置川流域は、今なお続く伝統的な因州和紙の産地であり、その歴史も江戸時代まで遡ります。

 日置川流域には「日置郷」という領域が広がっていました。中世の史料には「日置・勝部両郷」と一括りで登場することが多く、両地域の強い結びつきが窺えます。また江戸時代に編纂された『因幡志』には、勝部谷の八葉寺村と日置谷の早牛(はやうじ)村が「カワカハ坂」で結ばれていたとありますが、このような山道は中世にも存在していたと推察されます。このような山間ルートを通じて、両地域の人やモノの交流・交易があったと考えられます。

(2)中世の港町「青谷」

 勝部郷の流通や交通を考える際に重要なのは、勝部川の下流に位置する「青谷」の町の存在です。中世の青谷に「町」が形成されていたことは、天正3年(1575)の「島津家久公御上京日記」に「あをやの町を通り…」とあることからも確認できます。日記の中で島津家久は「町」と「村」を使い分けていることから、戦国時代の青谷は「町」と呼ぶにふさわしい景観が広がっていたと考えられます。

 青谷の「町」の形成を考える上で最も注目されるのは、この地が勝部川と日置川の合流地点に位置しているということです。これは2つの川の水運や物流と無関係ではないと思われます。おそらく勝部郷や日置郷の村々で生み出された産物や加工品が勝部川や日置川を下って青谷に集積し、それが日本海水運や陸運を通じて各地に運ばれたものと考えられます。

 中世の青谷においては、豊富な種類の物資が市場に並んで、多くの船や人々が行き交うにぎやかな光景がみられたのかも知れません。

(3)熊野信仰とのつながり

 最後に熊野信仰とのつながりをみておきたいと思います。熊野那智大社の「潮崎万良文書」には右のような史料があります。

禁制2

 これは「先達等注文」と呼ばれるもので、康永3年(1344)の熊野那智大社(和歌山県)の先達(せんだち)と檀那(だんな)を書き上げたものです。

 先達とは熊野信仰の護符を各地に配布したり、熊野への参詣の道案内をする者で、主に熊野で修行を積んだ修験者があたりました。檀那とは熊野信仰の信者のことで、先達や御師(おし)(注1)の宿を提供したりしました。

 これによれば、因幡国の先達である伊予坊の檀那として「勝部郷 伊豆法橋」と記されています。このことから、熊野那智大社の檀那が勝部郷内に存在していたことがわかります。『因幡志』によれば、近世の八葉寺村に「熊野権現」が鎮座していることから、檀那の中心は八葉寺村であった可能性もあります。

 先達や御師たちは、熊野の護符とともに、畿内のさまざまな情報や文物を地方にもたらしました。現在のようにテレビやインターネットがなく、情報網が発達していない時代、彼らによってもたらされる畿内方面の情報や文物は、地方で生活する人々にとっては魅力的かつ貴重であったと思われます。

おわりに

 今回は、中世の因幡国西部、とくに勝部川流域の地域社会の特質について、当時の史料をもとに考えてみました。

 中世の勝部川流域は多種多様な産物を生み出す資源の宝庫でした。この地域には、その生産や採取・加工を生業とする人々が多く生活していたと推察されます。このような地域的特質を持つ勝部川流域は、室町幕府や有力寺社、戦国武将たちにとって魅力的であり、多くの有力者が経済的な権益を持っていました。

 この地で生み出された産物や加工品は、青谷の町に集積されて船で各地へ運ばれたり、山間路を越えて他地域へもたらされたと考えられます。これらのモノや人を媒介として、因幡国西部と畿内や各地域を結ぶ広域的なネットワークが存在していたであろうことも想像に難くありません。

 近世以降と異なり、中世以前においては、絵図・地図も少なく、地域の特徴を示す視覚的な資料は多くありません。しかし、古文書をはじめ地域に残された資料を丹念に読み解いていくと、さまざまな歴史像や地域像が浮かびあがってきます。我々が「学ぶ眼」を持って個々の資料と向き合ったとき、それらは実に豊かな地域の魅力を我々に示してくれるのです。

(注1)特定の寺社に属し、参詣者をその寺社に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者。伊勢神宮広峯社、石清水八幡宮、日吉社などにみられた。

(岡村吉彦)

活動日誌:2015(平成27)年12月

1日
青銅器調査の協議(倉吉博物館、湯村)。
2日
資料調査(祐生出会いの館・福田正八幡宮、岡村)。
3日
資料調査(大塚薬師堂、岡村)。
民具調査(米子市立山陰歴史館、樫村)。
4日
資料調査(江府町歴史民俗資料館、湯村)。
7日
銅鐸調査に係る所有者との協議(湯梨浜町個人宅、湯村)。
資料調査(日南町、前田)。
民俗民具調査(鳥取市青谷町、樫村)。
10日
資料調査(三輪神社、岡村)。
民俗・民具調査(南部町浅井、樫村)。
11日
民俗・民具調査(~13日、湯梨浜町・倉吉市)。
12日
日本民具学会大会(~13日、茨城県立歴史館、樫村)。
資料調査(日吉神社、岡村)。
学童疎開講演(鳥取県立博物館、西村)。
13日
美保基地関係調査(境港市、西村)。
14日
倉吉千刃関係資料調査(水戸市、樫村)。
19日
資料調査(~20日、やまびこ館、西村)。
25日
資料調査(琴浦町教育委員会、湯村)。
28日
資料検討会(公文書館会議室、西村)。

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編集後記

 今回は、現在の鳥取市青谷町、勝部川流域の中世に関する記事です。鳥取市青谷町は中世から楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)などの和紙の原料が産出されていたことがわかります。青谷町は現在もコウゾ(楮)を原料とした因州和紙の産地ですが、元々は原料の育成に適し、紙漉(す)きに必要な豊富な水量があり、流通の拠点となる町や港があるという今日の地場産業的な性格が古くからあったことがわかります。この歴史ある因州和紙のような産業が、尊重され発展するような未来であってほしいと思います。

(樫村)

  

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