第133回県史だより

目次

縄文時代の漆を考える

はじめに

 考古部会では、今年3月に『新鳥取県史資料編 考古1 旧石器・縄文・弥生時代』(以下、『資料編 考古1』と略す)を刊行しました。これは、3冊の刊行を予定している考古関係の資料編のなかで最初に刊行したもので、今後、『資料編 考古3 飛鳥・奈良時代以降』を平成29年度末に、『資料編 考古2 古墳時代』を平成31年度末に刊行いたします。どうぞご期待ください。

 さて、このたび刊行しました『資料編 考古1』では、鳥取県内の旧石器時代から弥生時代までの主な遺跡、合わせて201遺跡を取り上げて紹介しています。これらの遺跡の多くは、1972(昭和47)年に『鳥取県史1 原始古代』が刊行されてからのおよそ半世紀あまりの間に新たに発見されたり、発掘調査によって遺跡の内容が詳しく分かるようになったことで、その重要性が認識された遺跡です。その中には出土した遺物が質・量とも素晴らしいことから「弥生の地下博物館」と呼ばれる青谷上寺地遺跡や、弥生時代を中心とする大規模集落が発見されたことから「弥生時代の国邑(こくゆう)」と表現される妻木晩田遺跡など、全国的に注目され、話題となった遺跡ももちろん取り上げて紹介しています。販売もしていますので、興味のある方は当館ホームページをご確認ください。

 鳥取県では、近年、道路建設などに伴う発掘調査が次々と実施されたことで、低湿地での発掘調査事例が増え、数多くの遺物(土器、石器、木器、金属器など)が見つかりました。特に、通常であれば腐ってしまい残らないことが多い木製品などが良好な状態で見つかる例が増えています。青谷上寺地遺跡で見つかった精巧でデザイン性豊かな木製の容器類などは、その好例といえるでしょう。

 今回の県史だよりでは縄文時代の遺跡から出土したある遺物に注目したいと思います。それは、米子市淀江町にある井手胯(いでまたぎ)遺跡[21]という低湿地の遺跡から出土した2点の縄文時代の櫛(くし)です。井手胯遺跡は一般国道9号米子道路(現在の自動車専用道である山陰道)建設工事に先立って、平成3・4(1991・92)年に発掘調査が実施された遺跡で、妻木晩田遺跡の眼前に広がる淀江平野の中央付近に位置しており、調査前は一面に水田が広がっていました。遺跡からは縄文時代から弥生時代の遺物が数多く出土しましたが、その中に朱を混ぜた漆を塗って表面を赤く仕上げた櫛がありました(図1参照)。2点とも縄文時代後期から晩期の土器などが数多く含まれていた自然河川の埋土中から出土しました。

櫛1の写真と図
櫛1の写真(左)と図(右)
櫛2の写真と図、X線写真
櫛2の写真(左)と図(右)、X線写真(下)
図1 井手胯遺跡出土の櫛(財団法人鳥取県教育文化財団1993を一部改変)

出土櫛の紹介

 平成3年に出土した櫛1は、蒲鉾(かまぼこ)形の棟部に歯がつくもので、棟部幅が8.0cm、棟部高3.2cm、棟部最大厚1.2cmを測り、歯はやや開き気味になっていて10本あったことが分かります。完存していた歯は長さが4.5cmありました。一方、平成4年に出土した櫛2は、蒲鉾形の棟部の頂部が半円形状に切り取られた装飾性を持つもので、棟部幅が7.25cm、棟部高2.6cm、棟部最大厚1.08cmを測り、歯は残っていなかったものの9本の歯が付いていた痕跡がありました(注1)

 井手胯遺跡から出土した2点の櫛は、ともに「結歯式(けっししき)」と呼ばれる形態です。「結歯式」とは木などを加工して歯を作り、それらを並べた後に直交するように棒(横架材)を配置して歯を前後から挟んだり、紐で結束して櫛の骨格を形作り、木の粉などの混入物を混ぜた漆で棟部を塑形したものです。それに対し、木や骨などを素材とし、素材から歯を削り出して櫛としたものを「刻歯式(こくししき)」と呼んでいます。櫛の歴史を考えると、素材から歯を削り出す「刻歯式」という単純な構造の櫛がまず作られ始め、その後、部材を組み合わせて櫛を形作る「結歯式」という複雑な作業が必要になる櫛が作られるようになったと考えられます。

日本出土櫛の変遷

 それでは、「結歯式」の櫛はいつ頃から作られるようになったのでしょうか。現在見つかっているもので、日本で最も古いと考えられている櫛は、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡の貝塚から出土した縄文時代早期(約7,000年前)の櫛といわれています。この櫛は植物の蔓のようなものを長さ20cm程度、直径2~3mm程度に加工した部材7本をまとめてU字状に折り曲げて14本の歯とし、中央部分を紐状のもので束ねたもので、長さが11.5cm、最大幅7.2cmありました。構造的には混入物を混ぜた漆で棟部を塑形するものでななく、井手胯遺跡例とは異なっています。井手胯遺跡例と共通する構造を持つものでは、石川県七尾市の三引(みびき)遺跡から出土した縄文時代前期(約6,000年前)のものが現在のところ最古と考えられますが、放射性炭素年代測定(注2)では約7,200年前のものという結果が得られているため、東名遺跡よりも遡る国内最古の櫛の可能性があります(注3)。一方、「刻歯式」櫛は発見例が少なく、木製のものでは昭和50(1975)年に福井県の鳥浜(とりはま)貝塚[20]から発見された縄文時代前期(約6,000年前)の赤漆塗りの櫛が有名ですが、他にはほとんど知られていません(注4)。製作の容易さを考えると「刻歯式」の櫛がもっとあってもよいと思うのですが不思議です。1つの可能性としては、「刻歯式」の櫛には漆を使うことが少なかったため現在まで残る確率が低いのかもしれません。「結歯式」の櫛の場合、棟部を形成するのに漆に混入物を混ぜた塑形材を使用する場合が多いですが、漆は熱や湿気、酸、アルカリにも強いため、木質部分は残っていなくても、表面の漆膜が残っているため櫛が存在したことが分かることが多いのではないでしょうか。

列島内における井手胯遺跡の位置

 井手胯遺跡から櫛が見つかった当時、日本列島内で「結歯式」櫛は220点程度の出土例が報告されていましたが、そのほとんどは東北・北陸・北海道などから出土したもので、西日本から見つかったものはわずかでした(注5)。その後、20年余りが経過して「結歯式」櫛の発見例も増えてきましたが(注6)、西日本からの発見例はほとんど増えていないため、「結歯式」櫛の使用は東日本が中心であるという傾向に変わりがありません。

 では、井手胯遺跡の櫛は東日本のどこかで作られ運ばれてきたのでしょうか。出土量の違いを見るとそう考えたくなりますが、形態の違いが気になります。図2は日本各地から出土した櫛を抜粋した図ですが、これを見ると棟部の形態には多様なものがありますが、大きくまとめると方形状タイプと半円状タイプがあることが分かります。井手胯遺跡出土例は2点とも半円状タイプに属します。しかし、半円状タイプでも寺野東(てらのひがし)遺跡例[9]や桜町(さくらまち)遺跡例[11]のように棟部が縦方向に長いものが主流で、井手胯遺跡例のように横長のものはあまり類例がないようです。図2のなかでは三引遺跡例[14]が似ているように見えますが、時期に大きな開きがあるので関係はないでしょう。

地図
本州出土の櫛分布1
本州出土の櫛分布2
本州出土の櫛分布3
本州出土の櫛分布4
図2 本州出土の櫛分布(上屋眞一・木村英明2016を一部改変)

 それでは、周辺で作られたものの可能性はあるのでしょうか。日本に漆の木が自生していたのか、それとも大陸から人の手によって持ち込まれたものなのかは明確ではありませんが、日本列島内では今から約9,000年前の漆製品と考えられるものが北海道函館市の垣ノ島B遺跡から出土していますし、漆の木自体も約7,000年前には確実に存在していたと考えられています(注7)。漆樹液は温度と湿度の条件によって変わりますが、時間が経てば乾燥(固化)し、一度乾燥(固化)すると元に戻ることはありません。そのため、現在のように短時間で物の流通が行えなかった縄文時代であれば、基本的に漆樹液は「地産地消」されていたと考えて間違いないでしょう。鳥取県周辺では、平成12(2000)年に島根県松江市夫手(それて)遺跡から漆を入れる容器として使われた縄文時代前期初頭の土器が見つかり、放射性炭素年代測定による分析で、今から約6,800年前のものであると報告されています(注8)。そのため、約6,800年前には島根県東部地域にある程度の漆樹液を集めることができるだけの漆の木が存在し、漆樹液を集め、加工する知識・技術を持った人々がいたと考えて間違いではないでしょう。

 今後、発掘調査等の進捗に伴い、資料が蓄積されていくことを願っています。

(注1)永嶋正春1993「井手胯遺跡出土の漆資料について」『井手胯遺跡』財団法人鳥取県教育文化財団

(注2)炭素原子には、中性子の数が異なる炭素12・炭素13・炭素14の3種類があるが、このうちごくわずかしか存在しない炭素14は放射性炭素とも呼ばれ、放射線を出しながら徐々に減っていき、5,730年で半分に減ることが分かっている。生物が生きている間は、光合成や食物連鎖を通して常に新しい炭素を体内に取り込んでいるため、3種類の炭素の割合は一定だが、生物が死ぬと新たな補給がなくなるため、時間の経過に伴って炭素14が減っていく。そのため、その比率を測定することでその生物が死んでからどれだけ時間が経っているかを計算することができる。

(注3)工藤雄一郞・四柳嘉章2015「石川県三引遺跡および福井県鳥浜貝塚出土の縄文時代漆塗櫤の年代」『植生史研究』第23巻第2号p.55-58

(注4)骨角器製の櫛については含めていない。

(注5)西川徹1993「井手胯遺跡出土の櫛について」『井手胯遺跡』財団法人鳥取県教育文化財団

(注6)北海道恵庭市のカリンバ遺跡では、確認できただけでも57点に及ぶ多くの櫛が複数の墓の副葬品として見つかっている。

  上屋眞一・木村英明2016『国指定遺跡カリンバ遺跡と柏木B遺跡』同成社

(注7)鈴木三男・能城修一・小林和貴・工藤雄一郞・鰺本眞友美・網谷克彦2012「鳥浜貝塚から出土したウルシ材の年代」『植生史研究』第21巻第2号p.67-71

(注8)松江市教育委員会・財団法人松江市教育文化振興事業団2000『手角地区ふるさと農道整備事業にともなう夫手遺跡発掘調査報告書』松江市文化財調査報告書81

参考文献

財団法人鳥取県教育文化財団1993『井手胯遺跡』鳥取県教育文化財団調査報告書31

南茅部町埋蔵文化財調査団2002『垣ノ島B遺跡』南茅部町埋蔵文化財調査団第10輯

栃木県教育委員会『寺野東遺跡4.』栃木県埋蔵文化財調査報告第208集

(西川 徹)

活動日誌:2017(平成29)年4月

5日
資料調査(~7日、国立公文書館、国会図書館、防衛省防衛研究所、農林水産研究情報総合センター、西村)。
6日
県史編さんにかかる協議(鳥取大学、西川・岡村)。
7日
古墳測量現地確認(鳥取市大桷、田中・津村・岡村・西川)。
11日
古墳測量に関する協議(公文書館会議室、西川・岡村)。
民具編に係る協議(倉吉博物館・倉吉市上古川、樫村)。
20日
史料調査(鳥取県立博物館、西村)。
25日
満蒙開拓に関する取材(公文書館会議室、西村)。
26日
史料調査(公文書館会議室、西村)。
27日
GHQ文書に関する協議(やまびこ館、西村)。

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編集後記

 今回の『県史だより』は、今年4月から県史編さん室の考古担当となった西川徹専門員による米子市淀江町の井手胯遺跡から出土した櫛を中心とした記事です。出土櫛を見て蒲鉾形の棟部の丸みは、今日でも長野県木曽地方でミネバリやツゲなどの木を材料として生産されている「お六櫛」の棟部の丸みと似ていると感じました。自宅にある「お六櫛」で髪をすくと手で持つ棟部の丸みが掌に合ってとても使いやすく感じます。同じ人間が手で持つ以上、縄文人にとっても掌に合うように洗練された形状であり、似ているのは当然なのかもしれませんが、今回は縄文人を少し近く感じることができました。

(樫村)

  

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