第35回県史だより

目次

中世の因幡・伯耆と時宗

一遍上人と因幡・伯耆

 時宗は一遍上人(1239~89)によって開かれた鎌倉新仏教の1つです。伊予国(愛媛県)の豪族河野通広の子として生まれた一遍は、文永11(1274)年から全国各地を遊行し、「踊り念仏」によって布教を行いました。

 一遍は因幡・伯耆の地も訪れています。「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)巻8には、弘安8(1285)年に、一遍が丹後久美浜から但馬を経由して因幡に入り、その後伯耆「おほさか(逢坂)」を通って美作へ向かったと記されています。

 時宗の教えは一遍やその弟子たち(時衆)によって各地へ広められました。もと因幡国若桜郷高野(現若桜町高野)の光福寺にあったとされる太鼓(現島根県玉作湯神社蔵)の胴内には、一遍より5年早い弘安3(1280)年に、時宗信徒の「すいあ」がこの太鼓を奉納したという内容の墨書があり、この頃には時宗が因幡にも伝わっていることがわかります。


因幡・伯耆の時宗の広がり

 因幡・伯耆において時衆の活動が最も盛んであったのは南北朝時代であるといわれています。それは守護山名時氏のあつい信仰に支えられたものでした。その後も室町時代にかけて山名一族の庇護(ひご)を受け、各地に寺院(道場)も建立されていきます。

 『鳥取県史』によれば、主な時宗寺院としては、善光院、西光寺、光清寺(以上鳥取市)、専称寺(八頭郡八頭町)、三明寺(倉吉市)、海福寺、万福寺(西伯郡大山町)、安養寺(米子市)、宝国寺、貞治寺(日野郡日野町)などがあげられます。

 これらの寺院の中にはその後廃寺となったものや、曹洞宗など他宗に転じたものもありますが、鎌倉~室町時代において時宗が因幡・伯耆一円に広がっていたことがわかります。


暦応2年の石造物の発見

 現在、鳥取県内の時宗寺院は多くありません。江戸時代には6寺あったといわれる伯耆国の時宗寺院も現在は安養寺と万福寺のみとなっています。そのため中世の時宗の様子を多く知ることは困難です。

 そのような中、平成19年10月、県内で中世の時宗勢力の活動を示す新たな資料の発見がありました。県史編さん室が県史編さん協力員の案内で旧大山町内の中世石造物の所在調査を行った際、町内の個人墓地で台座部分に次のような銘文の刻まれた石塔が見つかったのです。

大山町内の中世石造物の写真
大山町にある暦応2(1339)年の中世石造物
石造物名文の画像
暦応2年中世石造物の銘文

 これは幅46cm×高さ37cmの石の一面に刻まれていたものです。現在は五輪塔の地輪部となっていますが、もとは宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎であったと思われます。

 暦応2年は西暦1339年にあたり、南北朝時代の北朝の年号です。県内には中世年号の刻まれた石造物は少なく、これまでも10点あまりしか確認されていません。また年代も現在確認されている範囲では3番目に古く、貴重な発見であると考えられます。

 詳細は不明ですが、末尾の「■阿」が勧進主となり、日阿・道義・見阿・妙阿の4名と世の中の衆生(命ある全てのもの)の平等利益を願って造立したものと思われます。「~阿」というのは「~阿弥陀仏」の略であり、時宗信徒に多くみられる法名です。この石造物が発見された場所の近くには、中世の時宗拠点であった万福寺や海福寺もあり、南北朝時代のこの地域の時宗勢力の活動の一端を示すものといえるでしょう。

 鳥取県には三徳山・大山を中心とする旧仏教系寺院のほか、中世以来の系譜を引く新仏教寺院も多くあります。しかし、近世以降に比べて中世の史料は少なく、未解明の部分も多く残されています。現在残されている1つ1つの手がかりを大事にしつつ、これまで明らかにされていない中世の人々の信仰や精神世界にも迫っていきたいと考えています。

鳥取県の在年号銘中世石造物表の画像
【参考】鳥取県の在年号銘中世石造物(南北朝時代まで)

(岡村吉彦)

室長コラム(その29):「百万遍」の数珠の光沢

 彼岸の中日の3月20日、鳥取市河原町今在家の観音堂で、「百万遍」の行事に参加させていただいた。

 「百万遍」は、「数珠繰り」とも呼ばれ、参加者が輪になって大きな数珠を回しながら念仏を唱える行事で、かつては広く行われていた民俗行事だが、現在行っている地区はかなり少なくなっているようだ。今在家の「百万遍」は、おそらく200年以上前から行われており、以前に比べると参加者は減少しているということだが、老人クラブを中心に、毎年春秋の彼岸に村人が集まって、行事が維持されている。

 今在家の観音堂の境内には、地蔵の石仏や相撲取りの塚など、江戸時代から明治初期にかけての石造物が並んで建てられており、当時の人々が後世に伝えようとした大切な歴史資料だということを、以前に地域の人にお話ししたことがある。それを覚えていていただいたのか、今回の百万遍を行う前に、そのことを説明してほしいと依頼を受けた。百万遍の行事は今までに見たことがなかったので、ぜひ一度体験したいと、喜んでお引き受けした。

 当日は、子供からお年寄りまで、20名くらいの住民が参加されていた。私が境内の石碑についてお話しさせていただいた後、いよいよ百万遍の行事だ。参加者は、お堂の中で丸く座り、両手で数珠を膝の上に持つ。数珠は、全体で径3メートルくらい、一つ一つの玉は扁平で、径は約4センチくらいだろうか。いずれの玉も、つるつるとした光沢を持っている。中央に座った人の鉦(かね)を合図に、百万遍が始まる。「ナンマイダー」と全員が唱えながら、数珠を時計回りに回していく。数珠の結び目部分とその反対側のあたりに、一廻り大きな玉があり、それが自分のところに回って来た時には、押し頂くのが決まりのようだ。数珠は33回廻すことになっていて、中央に座った人は、33本のマッチ棒をかたわらに置いて、数珠の結び目が一周廻るごとにマッチ棒を動かして回数を数えている。

 初めの内は、まわりを見ながらやり方を真似していた私だが、動作自体は簡単なものですぐに全体に合わせられようになった。そして、老若男女の声が調和するおごそかな雰囲気の中、ひたすら念仏を唱え、手を左右に動かすことによって、次第に日常の雑念を忘れ、無心の状態になっていった。約30分間の行事の間、数珠を通じて参加者との一体感が感じられた。それがこの行事の魅力なのだろう。最初は、気付かなかったが、数珠の光沢は、長年にわたり、数え切れないほどたくさんの人の手を回る中で生まれた自然な光沢だった。数珠の光沢の中には、過去の村人の真摯な祈りが詰まっているように思えてならなかった。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年2月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
民俗調査(鳥取市佐治町、樫村)。
2日
民俗調査検討会(公文書館会議室)。
4日
聞き取り調査(八頭町久能寺、西村)。
5日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
10日
民具調査(米子市彦名公民館、樫村)。
17日
民具調査協議(湯梨浜町教育委員会、樫村)。
19日
近世資料調査(倉吉市古川沢、坂本)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
26日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 鳥取市で桜が開花しました。本庁舎にある県史編さん室からは久松公園が良く見えますが、県史編さん室は3月末に公文書館内の一室に移転するため、編さん室の窓から満開の桜を眺めることはできなくなり、少し残念な気もします。しかし、移転を機会に気持ちを新たに、ますます盛んに活動していきますので、今後ともよろしくお願いします。

(樫村)

  

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