因幡の古代山陰道XR動画を一部リニューアルしました!
鳥取県埋蔵文化財センターでは、令和元年度から行ってきた古代山陰道の発掘調査成果をもとに、奈良時代から平安時代の古代山陰道を鮮明な画像により再現した「因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)動画」を作成し、公開しています。本動画で見られる様々な地形は、航空レーザ測量のデータをもとに忠実に復元したもので、駅使(えきし)が古代山陰道を駆け抜けた当時の情景がリアルに体感できると、大変好評を得ています。
今回、これまで公開していた青谷横木(あおやよこぎ)遺跡から養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡の区間に加え、養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡の区間(約100m)を新たに追加しました。動画は当センター展示室とYouTubeでご覧いただけます。丘陵鞍部(あんぶ)を盛土により大規模に造成し、土橋のようになっている地点は、養郷狐谷遺跡の注目ポイントです。

養郷狐谷遺跡 丘陵鞍部の大規模造成の様子

因幡の古代山陰道XRの画像(YouTube版)
養郷狐谷遺跡の盛土造成地点
また、今回のリニューアルに伴い、動画冒頭に「重要文化財『隠岐国駅鈴』」の音を追加しました。駅鈴の音色にいざなわれる古代山陰道を、駅使になりきってぜひ体感してみてください。
※「重要文化財『隠岐国駅鈴』」の音は所有者承諾のもと、使用しています。
■YouTube版はこちらをクリックしてください。
→「因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)動画」
■隠岐国駅鈴紹介ホームページはこちらをクリックしてください。
→隠岐の島町教育委員会
古代山陰道の総括報告書が完成しました!!
当センターは令和元年度から令和3年度にかけて、鳥取市青谷町の「養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡」、「養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡」、「養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡」、「善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡」において古代山陰道の発掘調査を行ってきました。発掘調査の結果、尾根上の切通しや大規模な盛土造成の痕跡が確認されたほか、官道に「つづら折り」が採用されたことが全国で初めて明らかになるなど、古代官道の研究を進める上で重要な発見が相次ぎました。
今回、これらの発掘調査成果をまとめた報告書『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書-』が完成しました。この報告書は、青谷町周辺で実施した現地踏査の成果や、過去に実施された「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」、「青谷横木(あおやよこぎ)遺跡」の発掘調査成果等も加えた青谷町の古代山陰道の総括報告書となっており、この地域の古代山陰道の調査研究成果が詰まった一冊となっています。
鳥取県埋蔵文化財センター調査報告書71
『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書-』
↓この画像をクリックしていただくと表紙と目次のPDFデータがダウンロードできます。

完成した報告書は準備が整い次第、県内の図書館や大学などの研究機関に発送するほか、3月26日(日)午前9時からとっとり電子申請サービスで販売を開始します。価格は一冊2,500円です。
なお、3月26日(日)には八頭町八東体育文化センターで開催する考古学フォーラム2022「須恵器からみた古代因幡の流通と交通」 当日、フォーラム開催と報告書の完成を記念して、『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書』を会場で販売(50冊限定)します!!
「須恵器からみた古代因幡の流通と交通」報告書についてはこちらをクリックしてください。
古代山陰道の立体地形測量図が完成しました!
当センターでは、地形に残された遺跡の痕跡を確認する手がかりとなる地形測量図を作成しています。立体地形測量図を作成するためには、飛行機やドローンなどにレーザーを対象物に照射して形状を測る器械を搭載して、地面に照射することで地形の記録を行います。木々に覆われた場所では、無数に照射したレーザーの多くは木々の葉に当たりますが、その隙間を通り抜けて地面に到達した光線のデータを抽出します。その得られたデータを解析すると地形の凹凸が明瞭にわかる地形測量図が完成します。さらに、地形の凹凸が感覚的に分かりやすい3次元(3D)画像を作成することができます。

飛行機を使ったレーザー測量のイメージ図
今年度は、青谷の東側丘陵にある養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡と、西側丘陵にある青谷大平(あおやおおひら)遺跡のレーザー測量を行い、先日、地形測量図が完成しました。養郷狐谷遺跡では、大規模な盛土造成が行われた丘陵鞍部(谷が尾根の両側からせまっているところ)の地形が明瞭に観察できるほか、青谷大平遺跡では切通しの痕跡がダイナミックに感じられます。これらの測量成果と発掘調査の調査成果を相互に検討することで、古代山陰道の路線が復元できます。

養郷狐谷遺跡地形測量図

養郷狐谷遺跡3次元(3D)画像
(両側からせまる谷部を埋め立てて古代山陰道が造られています。)

青谷大平遺跡地形測量図

青谷大平遺跡3次元(3D)画像
また、当センターでは、レーザー測量で得られたデータを元に「因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)(動画)」を作成、公開をしています。駅馬(えきば)で古代山陰道を駆け抜ける駅使(えきし)になりきり、古代山陰道をリアルに体感できると大変好評を得ています。現在、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡、養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡、養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡の路線を忠実に再現していますが、今年度レーザー測量を実施した養郷狐谷遺跡のデータを新たに加え、古代山陰道XRをリニューアルする予定にしていますので、どうぞお楽しみに!
※「因幡の古代山陰道XR動画」は当センター展示室とYouTubeで絶賛公開中!

「因幡の古代山陰道XR動画」(青谷横木遺跡)
〇「古代山陰道XR」詳細はこちらをクリックしてください。
→「古代山陰道XR」みどころポイント
駅鈴の響く古代山陰道
当センター展示室とYouTubeでも絶賛公開中の因幡の古代山陰道XR動画にその後に明らかとなった調査成果を加えた最新バージョンを現在作製中です。
ところで、皆さんは「駅鈴(えきれい)」というものをご存じでしょうか?XR動画では、駅馬(えきば)に乗った使者である駅使(えきし)がつづら折りの峠道を越えて、都へ向かうようすをリアルに体感できますが、実際に駅使は駅鈴とよばれる鈴を打ち鳴らしながら古代山陰道を疾走していました。現代に例えるならば、さながらサイレンを鳴らしながら走るパトカーといったところでしょうか。じつは、国家から駅鈴を支給された駅使だけが駅馬を利用することができ、駅鈴は通行許可証の役割を果たしていたのです。
下のホームページリンクから島根県隠岐の島町の玉若酢命(たまわかすのみこと)神社宮司である、億岐(おき)家に代々伝わる駅鈴がご覧いただけます。この駅鈴は昭和51年(1976年)発行の官製はがきの切手部分の図柄にも使われ、三重県松坂駅前に置かれた駅鈴のモニュメントをご存じの方もいらっしゃるかと思います。駅鈴は国内でこの隠岐の島町の2点しか現存しておらず、国の重要文化財に指定されています。青銅製で、大きさは幅5.5cm、奥行5cm、高さ6.5cmほどです。「駅」と「鈴」の文字があり、重厚で美しいフォルムをしています。本来、駅鈴には剋(こく)と呼ばれる刻み目があり、刻み目の数だけ駅馬を利用する決まりとなっていました。使者の身分が高いほど利用できる駅馬は多く、それだけ付き従うお供が多かったことを物語っています。そのため、駅使は最大で10名、最低でも2人以上で移動していました。
隠岐国の駅鈴は、江戸時代の安永8年(1779年)に光格天皇が即位した際の式列に加えられており、同じく江戸時代の書物には、隠岐国造は駅鈴を持ち歩き、その音は「清亮(せいりょう)、殊更(ことさら)に音高くしてよく遠く聞ゆ」と記されています。
残念ながら、その清らかで澄んだ音色は玉若酢命神社でしか聞くことはできませんが、駅鈴が響きわたり、国家の大事を伝える使者が行き交う山陰道の姿をイメージすることができます。
参考文献:近江俊秀2016『古代日本の情報戦略』朝日新聞出版
○隠岐国駅鈴紹介ホームページ(隠岐の島町教育委員会)
↑こちらをクリックしてください。
「青谷古代山陰道ウォーク」で解説を務めました!
令和5年3月4日(土)に鳥取市鹿野往来交流館童里夢主催の「青谷古代山陰道ウォーク」で、当センター職員が解説を担当しました。好天に恵まれ、春の心地よい日差しの中、30名の参加者とおよそ5kmの道のりを約3時間かけて散策しました。
今回は、鳥取市青谷町の平野部から西側丘陵にかけての地形や古い地割の痕跡を確認しながら、古代山陰道の路線(青谷大平遺跡(あおやおおひらいせき)、青谷瀬﨑遺跡(あおやせざきいせき)、青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき))を巡りました。青谷大平遺跡では丘陵上に残された幅約9mもある大規模な切通しの痕跡を実際に見ていただいたほか、青谷瀬﨑遺跡と青谷上寺地遺跡では、古代山陰道が敷設された当時の地割の痕跡が現在まで踏襲されている様子を解説しました。
参加者の皆様からは、「初めて聞くことが多かったので、興味深く聞きました。」など、好意的な感想をたくさんいただきました。今後もこうした機会を利用して、多くの方々に古代山陰道の魅力を発信していきたいと考えています。

青谷古代山陰道ウォーク ― 青谷大平遺跡の大規模な切通し ―
調査報告書「因幡国山陰道跡」がまもなく刊行されます!
現在、「因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書-」の刊行に向けて、校正作業を進めています。
今回刊行する報告書は、当センターが令和元年度から鳥取市青谷町内で実施した発掘調査成果に加え、青谷町・鳥取市気高町で行った現地踏査結果や、過去に実施された古代山陰道の発掘調査成果等をまとめた、青谷の古代山陰道の総括報告書です。
報告書は今年度末に刊行予定で、その後に販売も行う予定ですので、どうぞお楽しみに!

校正中の報告書表紙

校正作業風景
古代山陰道の発掘調査を終了しました!(その2)
今年度の古代山陰道発掘調査成果報告第2回目は青谷瀬﨑遺跡(あおやせざきいせき)です。
青谷瀬﨑遺跡は青谷上寺地遺跡で見つかった古代山陰道の路線延長線上にあり、古代山陰道が青谷西側丘陵に取り付くと想定される場所です。江戸時代の絵図にも古代山陰道の痕跡と考えられる帯状の地割(ちわり)が描かれており、今回、この地割部分を調査しました。
トレンチを2本設定し、青谷上寺地遺跡で古代山陰道が見つかった標高まで掘り下げましたが、残念ながら今回の調査では古代山陰道の痕跡は確認できませんでした。しかし、律令期のものと考えられる須恵器片が出土しており、古代山陰道が作道される時期に、この地で人々が何らかの活動していたことがわかったことで、今後の調査研究に繋がるものと考えています。

古代山陰道の痕跡と考えられる帯状の地割

青谷上寺地遺跡の古代山陰道

須恵器片が出土
古代山陰道の発掘調査を終了しました!(その1)
12月28日(水)をもって、令和4年度の古代山陰道発掘調査を終了しました。
今年度は青谷西側丘陵上(青谷大平遺跡:あおやおおひらいせき)とその丘陵裾部(青谷瀬﨑遺跡:あおやせざきいせき)において、古代山陰道の路線の確定や道路盛土の構造を解明することを目的として調査を行いました。その調査成果を2回にわたって御報告します。
第1回目は青谷大平遺跡の調査成果です。
青谷大平遺跡は令和3年度から調査を行っており、大規模な切通しや道路の側溝と考えられる溝が見つかっていました。2年目となる今年度の調査では、斜面部における古代道路の盛土の構築方法の解明と道路の幅員を確定することを目指しました。今回の調査では、残念ながら斜面部に明確な古代道路の盛土痕跡を確認できませんでした。しかし、新たな発見として、トレンチ2の道路盛土下面に土坑(どこう)が見つかり、土坑内からは須恵器片が出土しました。この須恵器片は令和3年度の調査で同じトレンチ2からみつかった平瓶(ひらか:須恵器の一種)の一部と考えられることから、平瓶はこの土坑に納められていたものであったことがわかりました。道路盛土のすぐ下から平瓶を納めた土坑がみつかったことから、道路を作道する前に地鎮のような祭祀行為が行われた可能性が考えられます。

トレンチ2土坑検出状況

トレンチ2から出土した須恵器(平瓶)
また、トレンチ6では古代山陰道の側溝の可能性が考えられる溝が2条見つかり、両溝の芯々距離が約5.4mであることがわかりました。

トレンチ6溝検出状況

青谷大平遺跡トレンチ位置図
「古代交通と祭祀-青谷町域を中心に-」編
古代山陰道特別講演会「古代の道と祭祀」Q&Aの第5回目です。
今回は、鳥取県地域づくり推進部文化財局青谷かみじち史跡公園準備室下江健太係長に事例報告をいただいた内容に関わる質問について回答いただきました。
Q&A第1~4回については、こちらをクリックしてください。
→(第1回・第2回・第3回・第4回)
Q:青谷横木遺跡のP1区柱痕は樹皮が残っていたのでしょうか。
A:青谷横木遺跡のP1区では古代の柱痕が多くみつかり、その柱には樹皮が残っていました。これらが建物であれば「黒木造り」の建物といいます。
簡易な建物や祭祀の時に使用する臨時の建物に使用されるものであり、P1区は木製祭祀具が集中する10区に近接する調査区なので、注目されます。
Q:因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)の話も興味深かったですが、15世紀の成立だということで、地名の後世のこじつけのようにも思われます。女子群像の板絵は何世紀頃のものですか。
A:「女子群像」板絵は7世紀末から8世紀初頭のもので、「因幡堂縁起」は15世紀ごろのものです。「女子群像」と「因幡堂縁起」との関連性については、興味深い事例の1つとして取り上げられましたが、講演会でお話したとおり、時期差があることから直接的な関連はないものと考えます。
ただし、「因幡堂縁起」の話は、因幡と伯耆の境における境界祭祀の言い伝えが、古くから存在していた可能性を示す事例と言えます。
Q:境界祭祀が行われた青谷ということで、古代の重要地域だったのではと思いました。当時の青谷の街の様子はどうだったか、人口はどれぐらいだったのか、現在分かることを教えてほしい。
A:因幡国と伯耆国の国境の地である青谷は、東・南・西側の三方が険しい山に囲まれ、平野部にはラグーン(内海)が入り込み、勝部川と日置川が流下するという、古代山陰道を作道するにあたっては、かなりの難所でした。
古代では災いは道から訪れると考えられており、古代山陰道がみつかった青谷横木遺跡では、難所である峠の入口付近で境界祭祀が行われていました。
また、青谷横木遺跡では官衙施設もみつかっているほか、青谷横木遺跡周辺には港があったことが想定されており、青谷は陸路と海上交通の結節点でもあったと考えられています。朝鮮半島も含めた他地域の人達が多く出入りしていたと考えられ、疫病なども入ってきやすい場所として、祭祀が盛んに行われていたのかもしれません。
古代の青谷にどれくらいの人が住んでいたのかはわかりませんが、古代における重要な地域であったと考えられます。
古代山陰道特別講演会Q&A「古代の道と祭祀-疫病は道を通ってやってくる?」編(その4)
令和4年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代の道と祭祀」Q&Aの第4回目です。
Q&A第1~3回については、こちらをクリックしてください。
→(第1回・第2回・第3回)
Q:前川遺跡の朱雀大路を挟んで対照の位置に観世音寺(かんぜおんじ)が位置するのが気になりました。観世音寺が大宰府(だざいふ)にも置かれるように境界の意識を持った信仰の寺院だとすると、神まつりと仏教が両輪として機能したと捉えられるのか、お尋ねしたいです。
※前川遺跡とは・・・
・天平の天然痘禍でおこなわれた道饗祭の直会の痕跡がみつかる。
・祭場は九条大路上か。
・多量の土師器杯・皿・椀が使い捨てにされている。
・お供え用の優品土器が少数、直会用の土器は同形・同大の土師器が多数出土。
・煮炊具も出土しており、その場で炊飯している可能性。
・土師器高杯の1点に灯火痕あり。
A:確かに前川遺跡と観世音寺は対象位置にありますね。平城京の観世音寺からは、長屋王邸と同じ瓦が使われていることがわかっていまして、長屋王家の木簡群の中にも、観世音寺について書かれたものが出土しています。
ですから、天平年間にはすでに観世音寺も建立されたと思いますから、前川遺跡と同時代のお寺とは言えそうです。前川遺跡を平城京の境界とみなすなら、観世音寺も京極ということになりますね。
大宰府の観世音寺は、たいへん寺格の高い大寺院で、発掘調査もおこなわれています。大宰府政庁の隣にあって、境界にあるとは言いがたいようですが、両者の関係についてはよくわかりませんでした。もし、ご存知の方がいらっしゃったら、御教示をお願いいたします。