第119回県史だより

目次

明治15年 地方税分割に関する太政官裁定

はじめに

 昨年、「県史だより」(第110回第111回)にて、鳥取県再置にともなう鳥取島根両県の地方税分割方法をめぐる論争を紹介しました(注1)。 このときは、島根県に残存する資料をもとに、両県の意見・解釈とその論拠に注目し、政府に伺をたてるまでのプロセスや裁定結果などを紹介しましたが、今回は逆に中央の側から、すなわち国立公文書館所蔵の「公文類聚(こうぶんるいしゅう)」をもとに、政府の裁定のようす及び他県事例の動向などについて紹介をしようと思います。なお、この資料によってわかる鳥取・島根県の伺・意見などはすでに旧『鳥取県史』(注2)が紹介しているので、本稿では主に政府側のそれを追っていきたいと思います。まず、資料を紹介する前に、鳥取・島根両県が伺書を提出してから裁定が確決するまでの経緯を簡単に整理しておきます。

明治14年9月 鳥取県と島根県を分離
同年11月        鳥取県・島根県で地方税分割に関する協議を開始
同年12月      協議不調。両県とも内務・大蔵卿に裁定を稟請
明治15年2月 内務・大蔵卿が裁定の見込みを示す(しかし、確決ならず)
同年4月6日        内務・大蔵両省が太政官に裁可の伺を提出
同年6月        太政官による裁定(確決)

裁定の結果及び内務・大蔵省と太政官のやりとりを記述した資料

 「公文類聚」は、もともと「太政類典」という名称で編集されていた、明治初期における政府の最高政策を知ることのできる基本的資料の一つです。太政官記録局が重要公文書原本を編綴したもので、明治15年に名称が変わりました。この中の「第六編・明治十五年・第四十七巻・租税三・地方税」には、「島根県ヨリ鳥取県ヘ地方税分割方」と題する部分があり、鳥取島根両県が裁定を請い、これを受けた内務・大蔵大臣がさらに太政官へ裁定案を伺い、さらに太政官が下した裁定結果とその根拠が示されています(なお、今回紹介する「公文類聚」の資料は、いずれも「アジア歴史史料センター」で公開されており、インターネット上から資料にアクセスすることが出来ます)。

太政官へ内務・大蔵省の伺書(明治15年4月)

 まず、「はじめに」で示した時系列を眺めたとき、太政官裁定の前段階、すなわち内務・大蔵省での処理に時間を要していることに気づきます。実に4ヶ月、裁定が大幅に遅れ、鳥取・島根両県が予算編成に閉口頓首していた最大の原因は、ここであったといえるでしょう。この間に両省が何をしていたのかを示すヒントが、この資料にある4月6日付伺文中に存在しています。

 この段階で内務省・大蔵省は、基本的に島根案に沿って処理を行うべく太政官への案を練っています。その根拠は、1.鳥取は、従前島根の事業をそのまま引き継ぐわけであり、地方税も同様のこと、鳥取のいう島根県会の効力が他県に及ぶという理は全くあたらない、2.鳥取が県会を置いたのは島根県の県治事務を否定するためではなく、次年度県会の準備及び急施の事業執行のためである、3.地方税金は官有物であり、人民に割戻して(公有物として)物件を平等にいったん下付するような考え方はおかしい、という考え方です。そのうえで、


 「試ニ仏国ノ邑法ヲ按スルニ、別紙抜萃刪参照ニ供ス(中略)ト見ヘタリ。(中略)本邦未タ是等財産処分分割ノ法規ナシトイヘトモ、此際若シ之カ法則ヲ創設セン乎、蓋シ彼ノ区分ニ倣フノ他ニ恰当(コウトウ:適当な)ノ方法ナカルヘシト思考ス」

と、フランス法の例を示し、フランスを模範としてそれに倣った方策を採るべきである、としました。そして、結論としては、「鳥取県ノ事理不当ニシテ」鳥取県の申牒を却下すべし、としたのです。

 実は、この2ヶ月前の2月に両省が一度島根県に内示した裁定見込とこの4月の案とは、内容が異なるものとなっています。ここに、両省の方針が揺らいで定まっていなかった様子がうかがえます(前出注1参照)。その後、フランスの法制という手本をもとめ、これをよりどころとして太政官へ伺をたてたという事情のようです。おそらく、このフランス法の調査・検証に、多くの手間と時間を要していたのではないでしょうか。

太政官裁定(明治15年6月)

さらに、同資料群中「第二局議案」(明治15年6月5日付)には、4月6日の伺をうけて太政官が内務省に折り返し示した裁定とその理由が示されています。なお、「第二局」とは、明治14年10月に設置された太政官の部局で、内務・教育・軍事・司法に関する公文を査理する役目をもっていました。その内容をかいつまむと、


 「島根県ヲ分ツテ鳥取県ヲ置クモ、特ニ一理事者ヲシテ管理セシメタル五州ヲ分チ、二理事者ヲシテ管理セシムルニ過キス。之カ為メ一週年度内動カスヘカラサル議決ノ効力ヲ変換スヘキニアラサルハ両卿申陳ノ如シ」
 「然レトモ分県判然タル上ハ鳥取二州ノ人民ハ島根三州ニ属スル費用ヲ出スノ理ナシ(中略)即鳥取県令申陳ノ如ク宜ク徴収金額ニ拠テ分割スベク」
 「府県ノ管轄ヲ分割シタルニヨリテ施政ノ方向ヲ変更スヘキニアラス」

といったものです。

 これらをまとめると、「合併されていた当時の県会議決の効力は確かに有効ではあるのだが、こと地方税分割の計算に関しては、島根県の管理を受けざる日(鳥取県人民が“連帯負担を免れた”日)が判然としており、その時点の見積もりでは理にあわなくなるから、やはり修正計算をして公平な分割を期すべきである」という、ほぼ内務省案を却下した結論を示しています。

 また、あわせて、もし鳥取案を受け入れ島根側の予算が当初見込より大幅に不足する事態が起これば、島根は再び一から予算を立て直す必要がある、という論には、「議決ノ効力ハ決シテ消滅スベキニ非ズ」とし、必要なら「更ニ其補足ヲ徴収スベシ」として、これも言下に否定しています。

 これらの論は、松江にある県有物を「恰当の分割法を以てすべきだが、弊害を招かぬようその土地に属せしめる」とした県有不動産に対する判断とも通底しており、「既決の原則は守りつつも、しかし柔軟に、最大限理に適うよう措置をする努力を怠るな」というメッセージと受け取れます。結果として、確かに旧鳥取県史がいう「鳥取県側優勢の感」はあります。但し、裁定は島根県既決の事項・方針を終始一定尊重していること、また結論を下すまでに相当の検討を行い、より公正さを期していると考えられること、さらには結果としてフランスを前例としない新しい見解を見出している点などを考えると、これは旧県史が問題とするどちらの論が優勢かという県同士の勝負の問題より、政府高官から各官僚に対する「新たに定めた原理・原則の明示・徹底、指導」といったようなニュアンスをより強く感じます。むしろ意思決定権の所在の問題、県レベルはおろか省庁の長でも及ばない、一部の政府内高級官僚の存在感の強さの方が際だってくるようです。

明治15年の太政官裁定は後の前例となったか

 明治14年に鳥取県が置かれたのち、明治16年に宮崎・佐賀・富山県が、同20年に奈良県が、さらに同21年香川県が新設されています。これらの県の設置にあたって、地方税はどのように分割されたのでしょうか?

 明治16年に置かれた3県については、『公文類聚・第七編・明治十六年・第一巻・政体・親政体例~制度雑款、官職一・職制章程・官等俸給・席次』中の改正「府県事務受渡手続」から、その様子がわかります。これによると「第二条 地方税ハ各更ニ会議ヲ開キ地方税収入支出ノ予算額ヲ議定セシムベシ」とあるのみとなっています。つまり、各県同士で協議するべし、ということで、鳥取のケースはそのまま当てはめられるべき前例とはなっていないということです。

 一方、大阪府分割・奈良県設置の際は、明治20年11月18日内務省令により手続きが定められ(注3)、やはり県同士で協議を行うもの(第二条)とはされながらも、「第三条 地方税ハ土地人民引渡前日迄ニ支払タル実費ヲ引去リ残額ハ徴収ノ歩合ニ依リ分割ス可シ」という条項があり、こちらは鳥取の例が前例として盛り込まれているようです。

 また、愛媛県分割・香川県設置の際も、前年と同様、明治21年12月18日内務省令により手続きが定められ(注4)、同様の文言がみられます。こちらも、鳥取での分割法がとられているようです。

 つまり、明治16年の合併では、いわゆる「鳥取方式」をそのまま採用していないが、その後の合併については、この方式は前例とされていた、ということがいえそうです。

 明治16年の富山県の場合は、分割元の石川県がかつて福井県とも合併しており、その福井県は鳥取よりも早く設置されていたという事情があります。そのため、鳥取のような分割方法を後になってそのまま採用できない事情があったことは想像に難くなく、この兼ね合いから、非常に難しいケースとなっていただろうことが考えられます。そしてこの影響が、もしかすると同時に処理を進行させていた宮崎・佐賀にも波及していたのかもしれません。このあたりの事情は、また機会があれば調べてみたいと思います。

おわりに

 『公文類聚・第七編・明治十六年・第三巻・官職三・地方庁廃置・撰叙任罷・官吏雑規官舎議会雑戴』の明治16年6月4日のところに、「富山佐賀宮崎三県開庁期限ヲ定ム」として内務省の稟告が載っています。そこに、「一昨年鳥取県被置候節ハ初発協議上ヨリシテ甚敷葛藤ヲ生シ、遂ニ御裁定ヲ経テ指揮及候得共、已に三年ヲ経過スルモ猶未タ結了ニ至ラス」という一文があります。裁定が出され、分割法が確決してもなお3年以上、この地方税分割問題は、依然として鳥取・島根の間に横たわる未解決案件であり続けたようです。さらにどんな問題が発生していたのか、なおも深く探ってみたいところです。思うに、どんな個人・組織であれ、財産分割というのはいつの世にあっても非常に神経質な重大問題です。この地方税分割問題も、今日の社会でのあちこちで起こりうる身近な問題と本質部分で相通じており、これらを紐解いてさらに現在における意思決定の参考に供する営みは、一定の意味をもつものと考えます。

 また、さらにもう一つ、気にかかった点があります。鳥取県が分離されるときの資料には「再置」という言葉が散見されますが、鳥取県分離以後成立した各府県の資料では、「設置」「新置」という言葉が使われ、「再」の字が見当たらない点です。鳥取のみ昔日に対する思いが突出していたということでもないと思いますが、実態としては、鳥取の場合も体制の非継続性や版図が異なることなど考えれば、後者の言葉を使う方がより適当であるように感じたりします。一見、細かな言葉の問題かもしれませんが、実はちょっとした課題なのかもしれません。このように、気づけば3回の連載となってしまったここに至っても、この地方税分割問題に関連する課題や疑問点はさらに増していくばかりです。

(注1)前田「明治十四年鳥取・島根の事務引継トラブル~地方税分割問題~(前編・後編)」『第110・111回県史だより』2015年。

(注2)鳥取県『鳥取県史 近代二巻 政治篇』1969 166頁~168頁。

(注3)『公文類聚・第十一編・明治二十年・第五巻・官職門五止・選叙任罷・官吏雑規・議会』国立公文書館。

(注4)『公文類聚・第十二編・明治二十一年・第五巻・官職四・選叙任罷・官吏雑規官舎附議会』国立公文書館。

(前田孝行)

活動日誌:2016(平成28)年2月

3日
資料調査(佐治町総合支所、西村)。
4日
史料調査(鳥取県立博物館、八幡)。
5日
近代資料編について打ち合わせ(鳥取大学、前田)。
9日
銅剣に関する記者発表(奈良文化財研究所、湯村)。
10日
銅剣に関する記者発表(鳥取県立博物館、岡村・湯村)。
13日
資料調査(~14日、琴浦町等、樫村)。
14日
資料調査(末松神社、岡村)。
資料調査(公文書館内、西村)。
22日
青銅器調査の立ち会い(奈良文化財研究所、湯村)。
25日
資料調査(~26日、ピース大阪、西村)。
27日
資料検討会(公文書館会議室、西村)。
29日
資料調査(東京国立博物館、岡村)。

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編集後記

 鳥取城址の御堀端の気の早い桜木は、ぽつぽつと開花しはじめています。正月と同様に節目を感じる年度末、少し急かされるような気分になっている方もおられると思います。

 さて今回は前田専門員(近代担当)の鳥取県再置の続編です。すでにシリーズ化した感もあり、興味ある方も多いと思います。このような話題がシリーズ化できるのは、鳥取県、島根県、中央政府(国立公文書館)にそれぞれ史料が保存され各々の立場からの視点が確保されるからでしょう。日本の文書主義はマイナスイメージもありますが、記録化し後世に検証を可能とする優れた側面もあります。日本の文書の作成、保存は決して世界に遅れをとるものではありません。

 しかし日本に公文書館に関する必要な事項を定めた公文書館法が成立したのは1987年と遅く、当時ユネスコ加盟国のうち公文書館法同様の法律がなかったのは日本だけでした。このあたりに日本の短所・長所双方の特徴がありそうな気がします。

(樫村)

  

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