第123回県史だより

目次

用瀬佐々木家の蹴鞠関係史料

はじめに

 日本の伝統芸能のひとつである蹴鞠(けまり)は、公家の遊芸というイメージが強いですが、武士達にも愛好されていました。そして、江戸時代になると、諸大名はもちろん庶民の中にも蹴鞠に熱中する人々があらわれました。

蹴鞠の図
蹴鞠の図(『明治節用大全』国立国会図書館デジタルライブラリーより)

 蹴鞠では独特の装束を着用しますが、それには家元の免状を必要としました。そのため近世には、庶民も蹴鞠の家元である公家の飛鳥井家、難波家から免状を取得し、蹴鞠を楽しんだといいます。

 しかし、その広がりに比べて近世の蹴鞠に関する研究は少なく、それは鳥取藩の場合も同じです。『鳥取県史』には、米子の商人鹿島重好が蹴鞠の名手であったなどの記述があり(注1)、また、天保期の鳥取城絵図に蹴鞠場がみえるようですが(注2)、具体的なことはよく分かっていないようです。

 そのような中、県史編さんにおける調査の中で蹴鞠に関する史料が発見されましたので、今回紹介したいと思います。 

佐々木家に残る蹴鞠免状

 蹴鞠に関する史料は、上方往来(因幡街道)の宿場として栄えた用瀬宿の佐々木家に残されていました。佐々木家は、屋号を「玉屋」といい(注3)、18世紀半ば以降は智頭郡下構(しもがまえ)の大庄屋や宗旨庄屋をつとめた家です。

 同家の中で蹴鞠を嗜(たしな)んだのは、明和7年(1770)に家を継いだと思われる助左衛門です(注4)。助左衛門は、明和8年(1771)12月に蹴鞠の家元飛鳥井家から免状を得ており(写真)、その内容は以下のとおりです。

佐々木家に残る蹴鞠免状の写真
佐々木家に残る蹴鞠免状
(史料)
 蹴鞠門弟として、絹戻上并に糸紐、
 白葛袴、鴨沓、藍白地革
 の事、これを免じ候、受用あるべく候、
 仍って状件の如し
 明和八年
  十二月廿六日 雅(花押)
        佐々木助左衛門とのへ

 この免状は、飛鳥井家の当主雅重から発給されたもので、絹戻上(きぬもじのかみ)ならびに糸紐(いとひも・いずれも上半身の装束)、白葛袴(しろのくずばかま)、鴨沓(かもくつ)の着用と、韈(しとうず)に藍白地革の使用を許可するものです。これらの装束は、町人・百姓の初入門の際に許されるものでした(注5)

鴨沓と韈
鴨沓と韈(池修『日本の蹴鞠』光村推古書院株式会社、2014年、43ページより転載)

 蹴鞠に興味を持った動機や免状を取得した際のルートなどは不明ですが、助左衛門は明和8年(1771)に飛鳥井の門人となり、初級者のための装束の着用を認められたのです。

 なお、助左衛門は、安永6年(1777)3月に「又兵衛」と改名し(注6)、翌年4月から1年半ほど大庄屋をつとめ(注7)、文化6年(1809)から文政6年(1823)までは宗旨庄屋をつとめています(注8)。この経歴をみるに、助左衛門が免状を取得したのは若年の頃だったと思われます。

 また、宝暦5年(1755)以降、蹴鞠の免状は、飛鳥井家・難波家それぞれが同日付・同内容のものを発給するという異色の家元制度を成していたようですが(注9)、現在のところ佐々木家では、難波家からの免状は発見されていません。

「年内珍事記」にみえる蹴鞠記事

 蹴鞠の家元飛鳥家から免状を得た助左衛門(又兵衛)ですが、しばらくすると蹴鞠から遠ざかったようです。しかし、文化期(1804~)になると蹴鞠を再開しました。その様子がうかがえるのが「年内珍事記」という史料です。

 「年内珍事記」は、18世紀の終わり頃から30年ほど書き続けられたと思われる史料です(注10)。概ね一年分が一冊にまとめられており、12冊が現存します。何冊かは裏表紙に「玉谷又兵衛玄綱(はるつな)」と記されており、作成者が又兵衛だと分かります。

 この史料には、表題通り又兵衛が珍しいニュースと感じたことが日記風に綴られています。興味深い記事が多々ありますが、今回は、『新鳥取県史 資料編』の掲載候補となっている享和4年(文化元年、1804)と文化2年(1805)の2冊の中から、蹴鞠関係の記事をいくつか紹介します。

(1)又兵衛、25年ぶりの蹴鞠

 2冊の「年内珍事記」にみえる蹴鞠関係の記事は15件ほどですが、初出は、享和4年(1804)7月23日です。この時又兵衛は、「あかうかりや(赤穂加里屋)城下湯浅直右衛門」と「平福ひめじや事三木太郎三」の二人が用瀬を訪れたことがきっかけで、居宅近くの大善寺で蹴鞠を行いました。それは実に25年ぶりのことだったと記しています。

 そしてこれ以降、蹴鞠を行ったという記事が散見されるようになります。

(2)享和4年9月の蹴鞠興行

 又兵衛が25年ぶりに蹴鞠を行った翌々月の享和4年(1804)9月9日、用瀬の大善寺で節句の「鞠興行」が行われました。参加者は、赤穂の湯浅直右衛門と姫路の藤吉、それに鳥取の田中村久三郎という者、これに又兵衛を含む用瀬の住人5名の計8名でした。

 この興行について又兵衛は、「近来捨り居申候所、珍敷興行ニ付、尤休日之事ゆへ、老若男女殊外大見物ニて」と記しています。近年蹴鞠を行っていなかったので物珍しさがあり、さらに休み日だったため、大勢の見物人で賑わったようです。10日も大善寺、11日は用瀬の正覚寺と智頭の光専寺で蹴鞠が行われ、こちらも見物人がいたようです。

享和4年9月9日の鞠興行の記事の写真
享和4年9月9日の鞠興行の記事

(3)享和4年10月の蹴鞠

 次に、享和4年(1804)10月23日の記事を紹介します。この時又兵衛は、鳥取に赴いて蹴鞠を行っています。「佐橋様へ罷出候而」とあるので、会場は藩士佐橋伴右衛門の屋敷だったと思われます。参加者は、佐橋伴右衛門に布施源太兵衛、同若旦那源左衛門、何やら文庵という医者、田中村久三郎、又兵衛の6名でした。

 藩士の屋敷で行われたと考えられる事例は他にも見え、例えば文化2年(1804)3月21日には佐橋屋敷が、同年9月15日には佐田左門屋敷が会場となっています。

(4)文化2年閏8月の興行

 最後に、文化2年(1805)閏8月の記録をみたいと思います。この時は、佐橋伴右衛門、鳥取の百谷(ももだに)村柳原寺、田中村久三郎が用瀬を訪れ、大善寺で蹴鞠が行われました。用瀬の住人は14人の名前が記されており、そこには用瀬御目附の徳嶋嘉右衛門もみえます。興行は17日から23日まで行われ、「賑々敷事(とても賑やか)」だったと記されています。

蹴鞠の参加者

 「年内珍事記」の事例から、又兵衛と蹴鞠を行った者たちを大雑把に分類すると、(1)播州の者、(2)鳥取在住の武士たち、(3)用瀬の住人の3つに大別できそうです。それぞれについて簡単にみていきたいと思います。

(1)播州の者

 2冊の「年内珍事記」にみえる播州の者は、赤穂仮里屋の湯浅直右衛門、平福の姫路屋こと三木太郎三、姫路の紙屋藤吉の3名です。彼らの素性は不明ですが、又兵衛は湯浅直右衛門について、「直右衛門大分之上手」「あかう直右衛門と申者、行年廿七・八才ニて、蹴鞠大ノ先生ニて」と記しており、20代ながら蹴鞠が達者だったことが分かります。

 名人の訪問によりその地域で蹴鞠が流行する事例は信濃などでみえるようで(注11)、用瀬の場合もこれに当てはまるかもしれません。

(2)鳥取城下の武士たち

 最も頻繁に名前のみえる佐橋伴右衛門は、知行400石の中級藩士で、近習目付や御伝役をつとめました(注12)。又兵衛たちと佐橋はお互いに鳥取と用瀬を行き来しているようで、蹴鞠を通した交流がうかがえます。

 布施源太兵衛は、御部屋御近習目付などをつとめた藩士です(注13)。佐橋とは役職も近く、旧知の仲だった可能性もあるでしょう。また、文化2年(1805)に屋敷が会場となった和田左門は、石高5500石の着座家の和田左門ではないかと思われます(注14)

 その他に柳原寺の僧侶や田中村久三郎といった名前がみえますが、これらの人物と佐橋などとの繋がりは今後の課題です。

(3)用瀬の住人

 最後に、用瀬の住人ですが、蹴鞠の参加者はある程度きまっていたようです。大善寺や正覚寺の僧侶のほかに、最も多い時で14人の名前がみえます。

おわりに

 以上、佐々木家文書から、蹴鞠免状と、享和4年(1804)、文化2年(1805)の蹴鞠の様子を紹介しました。藩士と庶民がともに蹴鞠に興じるなど、蹴鞠の意外な広がりの一端がみえてきました。

 江戸時代において蹴鞠は、他の遊芸と同じく、深入りしすぎると身を持ち崩しかねないものだと認識されていた一方で、社交のために役立つとも考えられていました。

 佐々木家の事例からは、適度に蹴鞠を楽しみ、藩士たちと交流していた様子がうかがえます。

(注1)『鳥取県史 5 近世文化産業』253ページ。

(注2)鳥取県立博物館来見田博基氏の御教示による。

(注3)元来は「玉屋」という表記が正式であるが、一時期「玉谷」「多満屋」と記されることもあった。佐々木清之助氏の御教示による。

(注4)「家老日記」(鳥取藩政資料)明和7年12月22日条。

(注5)井上智勝「町人・百姓と蹴鞠家元-飛鳥井家・難波家の蹴鞠装束免状をめぐって-」(『大阪歴史博物館研究紀要』第7号、2008年)など。

(注6)「家老日記」安永6年3月13日条。

(注7)「家老日記」安永7年4月13日条、安永8年11月13日条。

(注8)「家老日記」文化6年8月16日条、文政6年2月22日条。

(注9)(注5)井上智勝「町人・百姓と蹴鞠家元-飛鳥井家・難波家の蹴鞠装束免状をめぐって-」。ただし、飛鳥井家の許状は当主名で発給する直状形式、難波家の許状は雑掌が当主の意志を奉じた奉書形式という違いがあった。

(注10)現存する冊子のうち、最古の享和4年(1804)の表紙に「六番」、最も新しい文政10年(1827)の表紙に「弐拾八番」とある。

(注11) 町田良一「信濃における蹴鞠の流行」(『信濃』第3巻 第12号、1951年)。

(注12)『資料調査報告書 第二十七集-旧鳥取藩士佐橋家文書-」』解題(鳥取県立博物館、1999年)。

(注13)「家老日記」寛政4年1月9日条など。

(注14)「和田信美家譜」(鳥取藩政資料)。

(八幡一寛)

活動日誌:2016(平成28)年6月

2日
資料調査(鳥取市内個人宅、岡村・八幡)。
資料調査(旧土師小学校、前田)。
6日
「鳥取学」講師(鳥取大学、岡村)。
8日
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
資料調査(関寛齋関係資料、徳島県立図書館、西村)。
9日
講演会に係る協議(米子市、樫村)。
12日
資料検討会(中海干拓関係資料、公文書館会議室、西村)。
13日
資料調査(~14日、民具、国立民族学博物館、樫村)。
資料調査(旧土師小学校、前田)。 
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
20日
軍事兵事編検討会(公文書館会議室、西村)。
21日
資料調査(長谷寺・小鴨神社、岡村)。
史料調査(鳥取県立博物館、八幡)。
22日
資料調査(定光寺、岡村)。
24日
資料調査(米子市立図書館、前田・足田)。
26日
27日
資料調査(天萬神社、賀茂神社、岡村)。
28日
資料調査(航空自衛隊美保基地・米子市尚徳公民館、西村)。
30日
資料調査(渡辺美術館、岡村)。

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編集後記

 今回の記事は、鳥取藩内における蹴鞠関係資料の紹介です。先日、テレビで京都市上京区にある白峯神宮が紹介されていました。記事であった蹴鞠の家元である飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーをはじめ球技・スポーツの神とされているそうです。白峯神宮の境内には蹴鞠専用の庭である「鞠庭(まりば)」があり、テレビでは神職が「この鞠庭に入りますと、身分は関係なくなり、ともに楽しみます」と紹介していました。現代スポーツのチームワークやフェアプレイにも共通する思想が蹴鞠の中にあり、鳥取藩でも身分を超えて楽しまれる蹴鞠文化があったことにうれしさを感じました。

(樫村)

  

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